第84期 #8
「間違いだろう?」
「いえ、確かです。武田の軍勢が真っ直ぐこの城に。その数、一万は超えるかと」
天文十一年夏。諏訪を治める総領であり諏訪大社の神職も兼ねている諏訪頼重は、部下の報告に耳を疑った。
武田信虎と同盟を結び、共に戦ったのはつい昨年のこと。その後、信虎が追放されて息子が当主の座についたが、両家の盟約はそのままのはずだった。もし外交方針を変えるとしても、二十と少しの若い跡継ぎが国内を纏めるには時間がかかる。そう油断していたのだ。
「こちらの手勢は?」
「すぐに動かせるのは、千に届きません」
「わかった。篭城の手配をせよ」
城に篭れば、十倍以上の敵にもしばらく耐えられる。城攻めが長引けば、敵はなりたての当主に不信を抱いて動揺する。それを期待しての作戦だ。
だが敵将の武田晴信、後に信玄と名乗る男の強さを、頼重は知らなかった。
一ヶ月と持たなかった。武田勢の侵攻と同時に、同じ諏訪の一族であるはずの高遠氏が寝返り、本城はあっさりと陥落。頼重は一里ほど北の支城へと撤退したが、そこにもすぐに敵軍が群がり、風前の灯であった。
「武田め……よくも我らを裏切りおったな」
諏訪頼重は包囲された小城の中で、奥歯が砕けんばかりに歯噛みしている。
頼重の横には、彼の娘が悲痛な面持ちで座っていた。
「降伏すれば皆の命を助けると言っておりますが」
「一度裏切った人間の言が信用できるか!」
そう一喝する。
頼重は座してしばらく考え込んでいたが、やがて能面のように表情を消してすっと立ち上がった。
「父上、どちらへ?」
「祈祷をしてくる」
「しかし戦勝祈願ならすでに……」
「違う、呪詛だ。我らが死のうとも、必ず武田を滅ぼす呪いをかける。諏訪の神霊を侮ったことを後悔させてやる」
そう言って頼重は歩み出す。だがその足に娘がすがりつき、彼に懇願した。
「おやめください父上。呪詛は願った者にまで災いをもたらします。それよりも、武田に許され共に栄えられるよう祈るべきです」
「うるさい! あの武田とともに天を戴けるか! 我が子、我が孫の世までかかろうと、必ずや滅ぼしてくれるわ!」
そう言い切り、頼重は障子の奥へと消える。残された娘は一人静かに泣き崩れた。
翌日に城は落ち、諏訪頼重は切腹させられた。
彼の娘は連れ去られ、やがて武田信玄の子を身篭る。
その子供の名は武田勝頼。後に武田の家督を継ぎ、失政と敗戦により家を滅ぼすこととなった。