第84期 #21

午後の講義をさぼって

 ビーフシチューをつくろうと思って、買ってきた厚切りの牛肉をたまねぎと炒めた。ルー、ルーとシチューの素があるはずのところを探ると、ひとかけらしかない。

 予定を変更してシチューではなく、牛肉炒めにしよう。ひとかけらのルーを湯で溶かして煮詰め、ソースにした。

「毎日、何が楽しみなのかわからない」

 昨晩ふらりとでかけた飲み屋で知り合った女がそんなことを言っていたのをぼんやりと思い出す。カウンターで何本目かのベルギービールを俺は飲んでいて、女は珈琲とオレンジを注文していた。

「珈琲にオレンジっておまえはサガンか!」

 酔いもまわって、マニアックな文学的つっこみをしている俺を無視した女は、カットオレンジを皮ぎりぎりまで噛みしめ、果汁がたれるのも気にせずにのみこんだあと、湯気をたてた珈琲をすすった。

「だってラム入り珈琲だもん。ラムとオレンジの相性は悪くないよ」

 女はサガンについての俺のつっこみは無視して、またオレンジを齧りながら、

「朝の太陽は私の髪を熱し、私の肌の上のシーツの跡を、だったかなあ、悲しみよこんちはの一節は」

とつぶやいたあとで、「私、昨日彼氏できたの」といった。女の話によれば、ウサギのぬいぐるみに時計を埋め込んで、その心音を聞くのが趣味の男らしい。同僚だという。

「変態だな」
「でも楽しそうに語るのよ、あなたの趣味は」
「趣味? べつにない」
「私も趣味ってない」

 女は毎日仕事して夜に飲みにきて休日は買物してそれで人生が過ぎていく、つまらない、毎日つまらない、と俺に言った。彼氏ができたのにどうして荒れてるんだろう。女はまもなく眠った。

 俺はマスター相手に心臓の音聴く男なんだってさ、なんて話していると――それ木々高太郎の短編かなあ。死体の首だけ研究室からアパートに持ち込んでレポートかいてる学生の部屋に大家がたまたま入ったとかね――さすがブックバー。かなわないな。世の中かなわない奴ばかりだよ。

 俺は牛肉炒めとトーストを食べながら、うちでもビールを飲む。午後の講義には間に合わないだろう。そのうち夕方になって今日も喫茶店でバイトだ。何が楽しみだなんて俺も答えられないけど、言葉にできないことの積み重ねに楽しさはあると思うんだけどなあ。


「猿山さん、俺彼氏もちの女をすきになりました!」

 職場の先輩に話しかけた。噂では本当は猿らしい。

「いいねえ、恋は強奪に限るよ」と猿山さんは親指をたてて笑った。



Copyright © 2009 宇加谷 研一郎 / 編集: 短編