第82期 #7
雲一つなく晴れた空に、銀翼の爆撃機がいた。編隊を組まずにたった一機で、滑るように飛んでいる。
その様子を高空から睨みつける眼があった。木戸中尉搭乗の三式戦闘機である。
彼は眼下の爆撃機を見つめながら、静かに考えていた。
あそこにいるのはアメリカ軍のB-29、単機だからおそらく偵察型だろう。こちらは太陽の光芒に隠れているので気づかれておらず、B-29は無警戒な様子で飛んでいる。
それを眺めながら中尉は、「確実に墜とせるな」と独りごちた。彼の機にはドイツから輸入した機関砲が装備されており、他の日本機とは桁違いの攻撃力をもつ。これまでも多くのB-29を仕留めていたのだ。
しかし木戸中尉の指はためらい、機関砲の発射ボタンはなかなか押されない。
つい最近耳にした噂が、彼を迷わせていた。日本がもうすぐ降伏するという噂である。
確かにもう勝てる見込みはない。すでに海軍の船は大半が沈み、陸軍も各地で玉砕につぐ玉砕。日本本土も焼け野原になるほど空襲を受けていた。パイロットも彼ほどの歴戦の勇士はごくわずかで、大多数のひよっ子は初陣の日に撃墜される。木戸中尉のような一握りの精鋭がいくら頑張ろうとも無駄だった。
さてそこでもう一度、眼下の銀翼を見つめる。攻撃をかければあれを間違いなく撃墜でき、乗っている十数人はほぼ確実に死ぬだろう。
もちろんこれは戦争であり、やらなければやられる。偵察であっても見逃せば数日後にはB-29の大編隊がやってきて、空襲で何千という死者が出る。
だが、明日にでも戦争は終わるかもしれない。いや、今この瞬間にも、大本営は休戦交渉をしているのかもしれないのだ。
もしそうであったなら、あの十数人を殺してしまった腕を、自分は許せるのだろうか。妻子を愛する赤毛の父親や、夢に溢れた金髪の青年が乗っているかもしれない飛行機。それを無残に引き裂いたことを、一生後悔するのではないだろうか。
ひどく長い数秒間、木戸中尉は迷い、そして発射ボタンから指を離した。
彼は苦笑いを浮かべると、翼を翻して米軍機に背を向けた。今日は敵を発見できなかったと報告しよう。そう決めたのだ。
彼の心はとても清々しかった。なにか大事なことをやり遂げた気分に満ちている。
木戸中尉は情けをかけた敵機を、最後に一度ちらと振り返った。次の瞬間、彼の機は眩い光に包まれる。
1945年8月6日。広島上空での出来事だった。