第81期 #47

チェリー

 同寮の山口くんは身長がとても低い。
 僕も背は高い方ではないが、山口くんの顔がちょうど僕の肩辺りにくるものだから、悪気はないのに急に振り向いたとき肘打ちを見舞ってしまうことが何度かあった。
 おかげで僕と山口くんの間には、常に微妙な距離感が保たれているのだけれど、その距離が少しだけ縮まるのは、たいてい色恋に纏わる話をするときだ。

 そんな山口くんが最近気になっているのが事務の美奈子さんだというのを聞いて、思わず買ったばかりの缶コーヒーを落としそうになった。身長は辛うじて同じくらいではあるが、美奈子さんは年上の僕らに対しても気兼ねなくはっきり言う女性である。おかげで事務所の緊迫感が保たれていると上司から聞いたことがあるくらいだ。
 確かに美人ではあるけれど、僕は苦手なタイプなこともあって美奈子さんが話題にのぼることはまずないと思っていたのに、山口くんはすでに美奈子さんの家族構成から好きなお笑い芸人までリサーチ済みだった。

 山口くんは小さいだけあって、たまに驚くほど俊敏な動きを見せるときがある。まさか日曜日にデートをすることまで決まっていたとは、口に含んだコーヒーを少なめにしておいて助かった。
 こんなところまで動きが早いとは、今までの山口くんをみくびっていたようだ。何よりもあの美奈子さんが山口くんの誘いを承諾して、しかも休日を一日空けてまでデートをするなんて、これはもしかすると西谷くんが素人童貞(風俗はよく利用するらしい)を捨てる可能性だってあるかもしれない。
 僕の方が俄然盛り上がってしまったのだけれど、これからというときに休憩時間終了のベルが鳴ってしまう。こんなチャンスは滅多にない。いや、もう訪れないかもしれない。ただ相手が美奈子さんとなると一筋縄ではいかないだろう。仕事中も山口くんへどうアドバイスすべきかばかりを考えていたのに、残業が終わるとすでに山口くんは退勤したあとだった。

 月曜の朝。いつものように古臭いイージーリスニングが流れる中、足早に先を急ぐ人の波に押し流されていた。
 安全掲示板を左に曲がると人波は途切れて、後ろから近付いてくる人の気配を感じた。名前を呼ばれて無意識に振り返ると、肘に何か硬いものが当たる感触が……。
 またやってしまったようだ。
 そこには左頬を押さえて、しかめっ面をしている山口くんがいたのだが、その表情は次第にはにかんだ笑顔に変わってゆくのだった。



Copyright © 2009 山崎豊樹 / 編集: 短編