第81期 #36
雲と空、つないだ手と手、さよならとこんにちは――そんな、何かと何かの境界からこぼれ落ちた言葉をいくも拾いあつめて――――僕は博物館をつくった。
「このお店……」三十代くらいの上品な女性が、展示物を見渡しながら僕に尋ねる。「いったい何のお店ですか?」
博物館は静かな住宅地の中にある。だからよく画廊か何かと間違える客がいるのだ。
僕は微笑しながら答える。
「申し訳ありません。ここは博物館なんです」
「博物館? じゃあこれは何ですか?」
「それは、おととしの秋にみつけた《ドングリとリスの境界からこぼれ落ちた言葉》ですね」
「ドングリと、リス?」
「ええ。もみじ狩りへ行ったときに森の中で拾った言葉なんです。読み方や意味は不明ですが」
「そうですか……」女性は展示された言葉をじっと眺める――自分の言葉を探すように――あるいは困惑しながら。「世の中にはいろんな言葉があるんですね……。初めて見る言葉なのに、どこかなつかしいような……」
ある老人は、きまって火曜日になると博物館へやってくる。
「《一万円札と売春婦の境界からこぼれ落ちた言葉》か。くだらん」老人は大抵の言葉にケチをつける。「どうせ意味など無いのだろう?」
「いいえ、意味を知ることが出来ないだけです」僕は老人に説明する。「ある研究によると、古い時代の人類は、そのような境界の言葉を自在に使いこなしていたそうですよ。もちろん、文献などは残っておりませんが」
「ふん。言葉というのはな、それぞれが別々に分かれているから意味があるんだ。あんたの集めてる曖昧な言葉なんて、そもそも言葉とは呼べんのさ……。なになに……《火曜日と老人の境界からこぼれ落ちた言葉》だと? これはワシのことか?」
あるとき、ふいに昔の恋人が博物館にあらわれた。
「元気だった?」彼女は、少し疲れたような顔をして言った。「あなた、また変なこと始めたのね……」
「別に変じゃないさ……。君こそ元気だったかい?」
彼女は何も答えず、展示物を興味なく眺めた。
「あなた、まだ詩は書いてるの?」
「いいや。詩なんて書いたことないよ」
彼女は軽く溜め息をついた。
「《流れ星と人さし指の境界――》か……。取って付けたような組合わせね」
「組合わせはどうでもいいのさ。そこに言葉をみつけることが大切なんだよ」
彼女は、僕を見て微笑した。
「あなたって何も変わらないのね……。そんな言葉、どこにも存在しないのよ」