第81期 #35

アカシック・レコードをめぐる物語 異界編

 漱石の『吾輩は猫である』にある。二十四時間の出来事を洩れなく書いて、洩れなく読むには少なくも二十四時間かかるだろう――と。だから、この世界のすべての事象を記録しているアカシック・レコードは、世界そのものよりも大きな存在ということとなる。それが世界の内に存在することは、不可能なのだ――。
「でも実際ここにあるんだな、これが」
 私に対座する男の掌には、漆黒の小さな球体がある。それがアカシック・レコードであることは、今日の新聞の内容を昨日のうちに一字一句に至るまですべて正確に出し、それを一週間も続けたのだから、肯定せざるを得ない。
「なぜだ」
 漆黒の小さな球体は、問いに答えることはない。その代わりに男が、アカシック・レコードは事象を記録しているだけのものであって理由を持つものではない、と答えた。
「なあ、いい加減こだわるのはやめたらどうだ」
 男は私に付き合うことにいい加減に疲れてきたようだ。どこを見ているのかわからない目をして、掌で球体を転がしている。私が思索を続けると、間の抜けた声で、お前の次の問いは、と言った。腹が立つ、関係ない問いでもしてやれ。
「なぜ漱石がこれほど売れたのか。言っただろう、これに理由を訊いても無駄だ」
 男に機先を制された。いや、今のは私がどうかしていた。私が急に問いを変えようが、それを含めてアカシック・レコードには記録されているのだ。力が抜けるとコーヒーが飲みたくなった。男の分も用意してカップを渡すと、男は急に驚いた顔を私に向けた。
「何を驚く。ただのコーヒーだ」
 男はカップを受け取ると、ばつが悪そうに私から顔をそむけた。私がさらに畳み掛けると、男は、今は言えない、とだけ答えた。何なのかと思ったが、コーヒーが冷めてしまいそうなので、とりあえずそちらを先にした。
 飲み終えたカップを流し台に置いて水を注ぐ。カップから水があふれるのを見たとき、私はふと気がついた。水道の蛇口を閉めて、男に駆け寄った。
「もしも私たちのいる世界の外の世界があって、アカシック・レコードはその外の世界の存在だとしたら? そして今ここにある球体は、私たちの世界の中にその一部が現れた形だとしたら?」
 男は破顔した。
「お前が今その答えを導き出すと、ここにあったよ」
 だがしかし、アカシック・レコードが私の回答の正否を示すことはない。漆黒の小さな球体は、男の掌にそこだけの闇のようにあるだけだった。



Copyright © 2009 黒田皐月 / 編集: 短編