第81期 #1

さよならの夜

 残照の翳りゆく部屋にひとり、ストーブの炎が赤くゆらめくのをじっと眺めていた。
 じりじりと燃える炎に誘われ、くすみかけていた記憶が泡のように浮かびあがる。幼かったころ、暖かな羽に守られた空間は、とてもやすらかだった。しかし成長するにしたがい無遠慮な外界の手に曝され、柔らかな私の胸は血の赤で滲んでいった。
 そんな私の前に現れたあなたは、たったひとつの優しさであり最後の居場所だった。だから未だにそこから離れられず悩まされている。あれから幾年も経つというのに。
 こんな静かな夜は、ひとりで泣くにはあまりに寂しすぎて左胸の下あたりが「痛いよ」と、涙をながす。あともうどのくらいこうしていなければいけないの。
 新しい恋人ができれば忘れられるかと、他の誰かとつきあったりもした。枯葉が舞う並木道を寄り添い歩いても、腕の中につつまれ愛を囁かれても、思い出すのはあなたのことばかり。もしも隣にいるのがあなただったらと、つい考えてしまった。ううん、比べるのではなくて呼ばれているのだと思う。あの低い声で。語尾を上げる独特の抑揚で私の名前を呼ぶあなた。ふと気配を感じ振り返ってみる。けれど、そこには誰もいなくて。ただ、風が過ぎ去ってゆくだけ。わかっているのに酷く落胆してしまう。
 忘れようとすればするほど、輝いていたあのころの記憶は鮮やかに甦り、私を苦しめる。ほんと意地悪なひと。
 私の気持ちは、あなたが悲しい言葉を口にしたあの日のまま、いまも閉ざされ歩きだせないでいる。凍りついた時計の針に貫かれ、あなたの面影から抜けだせない。
 なんて勝手な人なの。私のことなんてとっくに放り出して、ちゃっかり新しい彼女と暮らしているというのに。それなのに、あなたは私のなかに住み着いたまま、ちっとも別れようとしてくれない。どうすればさよならしてくれるの。

 ストーブの炎が赤から青白い色にかわり、ユラユラと揺らぎはじめた。汗が滲むほど暑いのに、体は際限なく凍え、瞬きさえ億劫になる。もう疲れたよ。
 胸の奥に澱んだ思考は、この部屋の底に沈む一酸化炭素の波長に寄り添い、曖昧な色になってとけはじめ。
 あなたがいけないの。あなたが別れてくれないから。だから、それなら……いっそ私から。
 さようなら。大好きだったあなた。これでもう二度とあなたに悩まされることはない。
 きれいさっぱり。そう、きれいさっぱり、なにもかも無かったことにするの。



Copyright © 2009 三毛猫 澪 / 編集: 短編