第74期 #26

ケイタイ貴族

冬の雪山は一旦吹雪くと手がつけられない。視界は1メートル先が限界だ。ブリザードは容赦なく体温を奪っていくが、ヘタに動こうものなら足をとられアイスバーンを転がり落ちることになる。おさまるまでじっとしているしかない。

死と隣合わせの冬の登山をこよなく愛する僕は、登山家がよく口にする『そこに山があるから』などという美化された言葉がキライだ。今日も僕は一人で山と格闘している。
学生時代に山岳部だったとか、友人の勧めなどという理由から登山を始めたわけではない。むしろ逆である。友達も出来ずサークルに入る気も起こらず、つまらない学生生活に八つ当たりするように始めた僕の挑戦。山を征服することで、妙な幸福感を得ることに夢中になった。冬山にスコープを当てたのも、危険であればあるほど満足感が大きいからだ。

今日のブリザードはやたらと長い。踏ん張っているのがやっとだった。何度も谷底へもっていかれそうになるが、おそらくもう少しの辛抱だ。
ほんの少し風が弱まった時、右上の斜面に岩陰が見えた。あの下まで辿り着ければ、体力を温存することができる。僕は、あまり力の入らない足に渾身の力を込めて登り始めた。
一歩を踏み出すのに20分を要することもあったが、このまま黙って体温を奪われていくよりましだ。岩まであと少しというところまできたとき、防寒具を伝って微かなケイタイの振動が腰に響いた。
『こんな時に・・・』分厚い手袋を何枚か取り、携帯をキャッチした。
「もしもーし」
大声はブリザードにかき消され、途切れ途切れの言葉が耳をかすめる。
「予定・・・今・・・下山し・・・」
そこで電波は途絶えた。
最近では山登りがブームになっているせいか、山の上にも携帯電波の基地局があるのだろうか。そんなことに感心している間にも体温はどんどん奪われ、体全体が小刻みに震え出す。
『このまま進むべきか、下山したほうがいいのか。』
そう考え始めた時、再び強烈なブリザードが襲ってきた。足をすくわれアイスバーンを転げ落ちていく。
『やばい』
もう遅かった。

気がつくと、どうやら僕は奇跡的に病院にいるらしい。少しずつ視界が開けていく中でふと、思った。
あの時、携帯が鳴った。
僕の携帯の番号を知っているのは両親だけだ。彼らは去年他界している。

僕は看護婦さんから携帯を受け取り、着信履歴を開いてみた。

『クサカヒトシ』

僕の名前が、表示されていた。



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