第70期 #20

八月の光

 大きく揺れてエンジンが停止した。薄手の白い手袋越しにハンドルを握り締めていたレベッカは、目を大きく開けたままブロンドの巻き毛を揺らして助手席を見やると、首無デュラハンが近くにいるみたいに声をひそめながら「何がおきたの?」とその青い視線を、白い眉の陰でじっと彼女のことを見つめていた正面の瞳に向けた。虹彩の青い溜まりに老醜を晒した彼は、幼い子供にアルファベットの綴りを教えるためにそのちいさな手を握ってまだ何も書かれていないノートの上にゆっくりとAを出現させていく心優しい家庭教師のように、自動車の仕組みについて語り始めた。運転席に座る年若い女生徒は時折白い帽子を縦に揺らしながら彼の講義にじっと耳を傾けていた。素朴だが的を射た質問とそれへの回答を最後に閉講となると、レベッカは真っ赤な唇の合間から美しく生え揃った白い歯を覗かせながら「なんだって知ってるのね!」とシートの上で軽く跳ねてみせ、彼の合図でたどたどしく、だが力強くエンジンを始動させると、彼が頷くのを待ってからアクセルペダルを慎重に踏み込んでいった。黒い前輪が丘の緑に牙を突き立てる。「ちゃんと見てる?」
「ああ……見ているよ」彼――マキシムは、おそるおそる海面に足を伸ばし始めた真夏のアポロンの眼差しを浴びている彼女の横顔を、うっとりと眺めていた。巻き毛は光と区別がつかなくなり、繊細な産毛のひとつひとつが輝いて『イレーヌ嬢』の輪郭を浮き立たせ、そしてその中で頬だけがマグマを溜め込んでいるかのように黒々と燃えている。(ああ……これこそ生命だ……)
 マキシムは今、彼女をモチーフとした十三年ぶりの新作を書き進めている――これが最後の小説になるだろう。タイトルは決まっている。『賛歌』だ。批評家はこれを酷評するだろう。『八月の光』(ヒロシマでの被爆体験を持つ日本人のアメリカ大陸放浪譚)の巨匠は小説を捨て女と寝たのだと揶揄されるだろう。そうあるべきだ。私は孫ほども歳の離れた女と寝た。あれは輝きだった。地中のモグラが初めて光を浴びたのだ…………私は安堵している。小説家という襤褸を脱ぎ捨ててカーテンコールを迎えられることに――その時、開幕ベルと共に客席の照明が絞られていくかのようにマキシムの視界が閉ざされていく。黒い漣が黄金の島を侵蝕していく。手袋が、帽子が、唇が、瞳が、レベッカが……門が閉じていく。アポロンが没し、闇が大口を開ける。



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