第66期 #1

夏の動物

 街は、夏の予感で満ちている。夕方の風を切る、女たちの白い足が眩しい。天球が小さく破れ、そっと明かりの漏れたような、ささやかな月だった。私は、低いビル郡の隙間、薄闇色の空に浮かぶそれを、爪先で押しこみ、遊んでいた。

「お茶しませんか」
 三十がらみの、背の高いスーツの男。あまりに捻りのない言葉と、鈍く光る眼に、興味を持つ。衝撃!付いて行った女の末路とは?―――これでは、結果の知れた理科の実験と変わらない。名を尋ねられ、適当に答える。苗字は、高校生のとき予備校で出会い、少しだけ好きだった男の子から盗んだ。

 男に連れられ、紅茶専門店の喫茶スペースに入る。カントリー調の内装。ショーケースの中には、ゼラチンで輝く苺のタルトも、表面を焦がしたチョコレートプティングもある。差し向かいに座る男の、長いまつげに縁取られた眼、頬に落ちるささやかな影は、キリンのそれにそっくりだった。
「本当にお茶なんですね」
 私の言葉に、キリンは少し、怪訝な顔をした。

「プロジェクターの周辺機器を、アメリカで販売しているんだ」
 うさんくさい。私はお返しに、夜に自転車に乗ると、赤い月だけがひたひた付いて来る、と教えてやった。キリンは曖昧に笑い、私のロイヤルミルクティーを無断で飲んだ。そして、シナモンの枝でかき混ぜた自分の紅茶を私に勧めた。私は無言で飲んだ。

 営業時間が終わり、不機嫌そうな店員に、やんわり追い出される。
「もう少し、時間ない?」
 裏道に誘われるのを、適当に断る。あっちはホテル街だ。実験終了。
 突然、キリンは、私のかばんをするりと奪う。驚いて見上げると、キリンはかばんを向こうの手に持ちかえ、自由になった私の手を握った。
「駅まで送るよ」

 別れ際に渡された連絡先のメモ用紙は、NYのビジネスホテル備え付けのものである。なかなか芸が細かい。

 帰りの電車で、私が名を盗んだ男の子に偶然出会った。それほど親しくもなかったのに、思わず声を掛けた。目下浪人中の彼は、疲れて青白い顔を、ターゲット1900からこちらに向けた。そして、ゴールデンレトリバーの笑顔をくれた。話はあまりはずまなかった。

 真夏の夕暮れ、駅のコンコースで、もう一度キリンを見た。化粧気のない、くたびれた感じの女と一緒だった。黒く沈みかけた街路樹が、ぬるい風にざわりと騒いだ。サバンナの草原、青白い月の下での、動物のセックスを、私は思った。



Copyright © 2008 森 綾乃 / 編集: 短編