第64期 #19
おん歳79歳になる書道の人間国宝・よしえ師匠が、一番近い陸まで少なくとも2500kmはあろうかという沖にあらわれた。今日の師匠は『命知らず』と書かれたTシャツ一枚にジーンズという若い格好で、小さい船に乗り込み、へさき近くで”書”をしたためようとしている。こいつはどこにいても書をしたためるのである。
海は、荒れに荒れていた。よしえ師匠のまわりには15名のボディガードがこれでもかというほど水しぶきを浴びながら円陣を組んでいたが、彼らの任務はよしえ師匠を守ることよりもむしろ、紙を守ることだった。師匠に何の心配もしないで作業を続けてもらうためには、紙を守ることが不可欠である。15人に守られている紙はすごい人件費がかかっているわけだが、どこにでもある普通の紙だし、ふとした拍子にどこかへ飛んでいってしまいそうだ。しかしこのペラッペラの紙、よしえ師匠が何か書いた途端に日本の宝である。
「マスターよしえ。あんたはその辺にあるメモ帳に『山』と殴り書きしただけで商品になるほどの一流。何もわざわざかっこつけて、こんな海のど真ん中で派手に書く必要ないじゃないか」
とボディガードの一人、ボブが口を開いた。
「もっと私を褒めなさい」
よしえ師匠は、褒められたところまでしか話を聞いちゃいなかった。集中力がそんじょそこらの物ではない。
「さすが人間国宝はすげえ。ボブの話を後半まるごと無視だぜ……」
水しぶきが、まるで消防隊が山火事を消す気でいったときの放水のように勢いよく飛んできた。透明なビニール傘などを駆使して、なんとかよしえ師匠と紙を守りきるボディガードたち。
「マスターよしえ、紙は大丈夫かい」
ボディガードが師匠と紙のようすを見ると、いつのまにか作品は完成していた。
『なるへそなるへそ』
と書かれていた。