第62期 #9

生きてる象の解体現場

 ようやく派遣の仕事が見つかり直接現場へ向かった。千葉まで電車に乗りバスに乗り換えだだ広い埋立地で降りてヘリコプターに乗り込む。ヘリは洋上の巨大タンカーに着陸し私を降ろすとすぐ飛び去った。渡されたマニュアルを開いてこのタンカーを運転する仕事だと初めて知った。タンカーに乗っているのは私一人だった。大判の分厚いマニュアルには毎日の指示が事細かに書き込まれてあった。操縦室には旧式のレバーやらスイッチやら電球やらがずらり並んでいてすべてに名前がついていた。「愛に関する一般的約束レバーを引いてください。真実と夢の境界線ボタン、頭痛と歯痛の種ボタン、ひまわりとオウムのボタンを押します。赤坂の心象風景が黄色く点灯するのを確認してください」
 プレートに小さく書かれた名前をひとつひとつ読んでマニュアルの指示しているボタンを見つけるのに小一時間もかかることがあった。
 昼休み厨房に入ると本格レストラン並みにピカピカに磨かれた調理器具が揃っていて、巨大な冷蔵庫が何台もあり大量の食料が冷凍されていた。マニュアルにはエンドウマメとニンジンのオムレツやら豚肉と野菜の五目炒飯やらアボカドとベーコンのゆずこしょう風味パスタやら日々違う料理の詳細な作り方が指示されていた。マニュアル通りにやるのが契約条件なので私は毎日様々な料理を一生懸命作った。だんだん腕が上達しておいしい料理を作って食べることは心身によいようだった。
 午後には船底の小さな部屋に入って「女友達を慰める」と書かれたボタンを押した。
「昨日彼氏と会ったらさー冷たくてえ。ぜってー他に女いると決めた。わたしゃ決めたよ。だってー」
「本人に聞いたのか」
 私がマイクに向かってしゃべると七色のランプが点滅する。
「聞かねえよ……ねえわたしどうすればいい(すすり泣き)」
「ええっと……」
「死にたい。死ぬと思う。ねえどう思う?」
 こちらが返事をしなくても「女友達」のおしゃべりは続く。これは料理とは違って毎日ほぼ同じ内容だ。二時間ばかり愚痴を聞いた後でカタカタと音がしてスーパーのレシートのような紙に半角カタカナで成績が出る。やはりこのタンカーは一時代前のもののようだ。マニュアルには毎回六十点を超えるよう指示されているが非常に難しい。
 夕食前には甲板で体操する。見渡す限りの大海原に真赤な夕日が落ちていく。
 マニュアルに書いてないのでタンカーがどこに行くかは知らない。



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