第61期 #18

虎ノ門

作家は小説を書いていた。

本物の猿が女と恋愛する話である。舞台は東京で、猿は女と会う時ぬいぐるみを着る。ときどき猿のまま町を走ったりするけれど、Tokyoはそれくらいのことじゃあ驚かない、そういう設定だった。

作家は東京に行ったことがなかったし、もちろん猿好きでもなかった。東京の女がどんな趣味かもわからなかった。しかし変わらないのはどこに住んでいても女は女である。作家は暮している女をつとに観察するようになって、女を深く知ろうとした。一人の女が万人の女に繋がることを願い、その肉体を眺め、あえて異なる服を着てもらったりした。

作家も猿のつもりになって暮した。展開上、猿は日本文学に詳しくなければいけなかった。新劇や電車の知識が豊富でなければならず、従って関心のなかった分野の本を読み始めた。これも成り行き上、登場人物の一人は女の足が好きであった。作家は足など興味がない。が物語は作家の手を離れはじめた。それで男はトリュフォーのビデオを借りてきて研究したりした。なるほど、女の太腿には男にはない肉の豊穣さと女の匂やかさがある。ふくらはぎからくるぶしは対照的にすっきりとキビキビしている。足首より爪先には女の無意識にみせる無垢そのものがある。作家は発見した。

或る日、作家はある天才音楽家が東京虎ノ門で公演することを知り、上京する。金がないので夜行バスの日帰りであった。初めての東京である。バスを降り立つと空気がおいしいので驚いた。街にはあちこち公園があるし、何よりもどこにも人がたくさんいて賑わいがあった。

作家は自身の小説の舞台を訪ねる。隅田川を渡り、向島にある幸田露伴の旧居公園を歩く。猿と女が散歩した鳩の街商店街も練り歩き、東京メトロで浅草へ。雷門の前で猿たちはキスをしたのだった。女が時々寄るダッチ珈琲の店やとんかつ屋で食べたりもした。最後に築地駅から万年橋、三原橋を渡って晴海通りを直進し、4丁目の交差点をまがって再度直進。新橋駅から虎ノ門へ向った。六本木も渋谷も行かなかったが作家は東京が大好きになった。

天才音楽家の公演場についた。前列右端に猿と女がいた。猿は明らかに中年の着ぐるみを被っている。女が猿に話しかけているのだが、笑顔がとても素敵だった。やがて演奏が始まりそれは虎ノ門のクラシック好きを刺戟する選曲だった。終演後作家はバス停に急いだ。霞ヶ関のビルを眺め、小説の完成をあの猿と女に誓った。



Copyright © 2007 宇加谷 研一郎 / 編集: 短編