第61期 #16

八巻無情

 いえへえ、いつだって上流階級と対決の意志有りと公言して憚らない男がそこな往来に横たわっているのが見えるでしょう。
 見えるはずだよ。
 頭、あれリボンみたいの、わかります?
 ありゃあオオミズアオって蛾を樹脂で固めて作ったんだ。いえへえ、あたしが。

 そう言うが早いか、八巻はその薄緑がかって白く光る蛾バレッタを男の頭から毟り取った。抜けた長い毛髪が絡まったままのそれを俺の手に押しつけようとするがこんなもの利息分にもならない。

 まあまあまあお納めんなって。
 今はこれっ位しか差し上げられなくて、へえ全くお恥ずかしい限りで。

 八巻と俺の掌中で、それなりの力で挟まれたバレッタが、みしと軋んだ。拍子、硬化された翅の縁で八巻が掌を切った。丁度生命線に沿って一寸程の傷が、パクリ深く口を開ける。
 や否や。傷口からオオミズアオの幼虫が沸き出し、ぶりぶりとこぼれ、こぼれ落ちた幼虫全てが地を這って、蛾バレッタを毟り取られても仰向いたままピクとも動かない男に集結していく。その数ざっと数千匹。 八巻はといえばさしてうろたえる様子も無く、傷を押さえて薄ら笑いを浮かべている。
 幼虫群は地べたの男をみるみる覆い隠し、今や半数程は蛹になろうと脱皮している。終齢幼虫だったのか。しかし俺、この蠢く立派な幼虫群、割合平気だな。ガキの時分は揚羽の幼虫なんか戯れに飼って近所の生垣の枳を無断で伐って叱られたりしたものの、大人になってからは虫の類いがすっかり苦手になってしまったのに。あまりの大群だからか知らん。微妙に夕陽を乱反射する明緑の体節が何やら美しくさえもあるなあ。むーん。
 
 と、気付けば蛾バレッタは俺の手に。

 何しゃあがる、八巻! と見回すもその姿すでに消え臍を噛む俺の肩を、簡単服の女が叩いた。

 其の髪留蛾はアナタの持物か。否。其処な仰臥する現蛹塊元男の頭部から盗むを見ていたは我。アナタ泥。して棒。我許さじ。恐らくは。

 唐突に気色ばんだ女が矢鱈につかみかかるのをいなし、一瞬の隙をついてくちづけ。更に肩口まで艶光る直毛のおぐしを蛾バレッタでアップスタイルに! しなりとくず折れる簡単服。
 頬を紅色に燃やす女の目尻には光るものが。熱視線。アナタ泥。してぼ

 その時一斉に羽化した千を超えるオオミズアオが俺と女を渦巻いて、飛び立った。
 無音。
 輝き舞う銀緑色の鱗粉に祝福され、俺は女と手を取り合ってここに結婚の誓いをたてる。



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