第61期 #1

<叶う>の反意語は<破れる>ではなく

 将来の夢について書きなさい。と教員は言った。Gは左の、曲がらない人差し指と中指の間に鉛筆を挟んで持ち、器用に整った字で「バレーボールのせんしゅ」と書いた。本文の脇には「せかい」の文字と日の丸が加えられている。
 Gは満足そうに作品を眺めた。そしておもむろに、手を胸に軽く置き、聞き覚えのある旋律を口ずさんだ……国歌だった。
 学校では教えられていないはずだ。知的障害も軽からずあり、下学年適応の学習をしている。一般の教科書を用いることは少ない。今ある能力を最大限に活かして、介助なしにできることを一つでも増やそうという試みが始まったばかり。「ばかり」と感じられる、小学校三年目。
 教員は耳を疑った。何秒間も、それが国歌だということに気がつかなかった。ようやく、
「それは『君が代』。国の歌だよ。よく知っているね」
と言うと、Gは自慢げに胸を張り、
「うん。今、テレビでやってる」
 ……世界バレーのことだ。教員はそこでやっと合点がいった。
「そうか……だから毎日、あんなに一生懸命、練習しているんだ」
 休み時間には、一人で余暇を愉しむことが難しい彼女たちに教員が寄り添い、ともに遊ぶ。時間ごとに希望を尋ねるが、Gだけは必ず「バレー」と答える。他の二人の級友も一日に一度つきあってくれるが、二度目からはGの誘いを断る。教員は体が三つ欲しいと思いながら、Gのバレーと、他の子の希望とを同時進行させていたのだった。
 「そぉーれっ!」の掛け声でサーブ。レシーブしっかり、トスお願い。アタック決めて。咽喉がかれるのも気にせず、狭い教室の床の上に転がり続け、汗を流してボールを追う。Gは級友にも容赦なく「今の取れるよ!」と檄を飛ばす。
 ところでボールとして彼女たちが使っているのは風船である。教員が息を吹きいれただけの小さなゴム風船。この学級の児童はみな電動車椅子に乗っている。それぞれの車椅子の背に永久ライセンスが光る。
「私は卓球で世界に行くんだ。愛ちゃんみたいに」
 級友たちに「世界」が広がった。Gの真摯さが伝染したらしい。彼女たちにとって「世界」は遠くない。
「私はサーフィン。お父さんが昔、オーストラリアでサーフィンしたんだって」
 四人で厳かに国歌斉唱。ただし歌詞を覚えていないのでハミングする。教員は目を閉じて声を合わせながら、「世界」を、この先もずっと輝かしいものにしなければならないと、決意を新たにするのだった。



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