第60期 #31
これはぼくの体験した怖い話だ。
よくフィルムの劣化した映画を「フィルムに雨が降る」なんて言いまわしをするけれど、その日はまさにそんな感じの霧雨だった。
ぼくは傘をさして通りを歩いていた。時間は午後の昼時を過ぎて、おやつ時にはまだ早い頃。歩道を歩く人影はまばらで、車道を行き交う自動車が列をなす。
いつもなら大学の行き帰りにはバスを使うのだが、雨の日はいつも歩く。濡れた傘と服と髪の犇きあう乗車率二百パーセントオーバーの車内に閉じ込められて十分以上を過ごすというのは、もはや拷問だ。
だからぼくは、雨の日は通学時間が三倍に伸びても、かならず歩いていた。
けぶるような雨のなか、傘をさして歩いていると、車道を挟んだ反対側の歩道に奇妙な人影を見つけた。ぼくとおなじ方向を向いて歩いている髪の長い女性の後姿だ。傘はさしていなかったけれど、こういう雨では傘をささないひとも多い。だからそれは気にならなかった。
興味を惹いたのは、彼女の髪だった。
腰まである長い黒髪が風になびいてた。霧雨のけぶるなか、彼女の髪は春風に舞う枝垂桜のようにそよいでいた。
しかし奇妙なのはそれだけではない。
女性の髪はこれ見よがしに舞っていたのに、その奇異さに気づいておもわず足を止めたのは、ぼくだけだった。足早に彼女を追い越していくサラリーマンも、ぼくの対面から歩いてくる幼稚園児と母親も、彼女のことをまったく気に留めていなかった。
まるで雨なんか降っていないように髪をなびかせて歩く女性は、ぼくの目にしか映っていないのだ。あの女性はつまり、生身の人間ではなくて、霊の類なのだ。
わからないのは、どうしてぼくにだけ見えるのか――ぼくに霊感はないし、これまでにも金縛りひとつ経験したことがない。それがどうして、こんなにはっきりと霊が見えるのか。
ぼくが傘を片手に立ち止まって考えこんでいると、幼稚園児と母親の話し声がきこえてきた。
「ねえ、ママ。あのお兄ちゃん……」
「しっ、だめよユウくん。目を合わせちゃいけません」
「でもぉ……どうしてあのお兄ちゃん、雨が降ってないのに傘さしてるの?」
これはぼくの体験した、本当に怖い話だ。