第57期 #8
ゆり子は風呂場で手首を切って倒れてる妹をまた見つけた。傷は浅かった。妹は泣きながら別れた男の名前を口にした。
ゆり子は一人暮らしで聾学校の事務員をしていた。妹は健常者で、子供のころは熱心にゆり子の手話を覚えてくれたが、年頃になって家を出て長く会ってなかった。久しぶりに帰ってきた妹は不健康に痩せて目つきが悪くなっていた。ゆり子は手を動かしたが妹はすぐに手話を読むのを諦めてしまった。ゆり子に読唇させるためゆっくり言った。
「もう、忘れた、の」
浩が川辺で鮒釣りをしていると、弟の孝が小さな犬を抱いてやってきた。拾ったと言う。孝はその犬を飼うと言ったが犬の首輪には住所が書かれてあった。
「きっと家の人が心配してるよ」
「ぼくが飼うんだ」
まだ小学生の孝はいつも兄の尻にくっついているおとなしい少年だった。いつだって兄の言うことを聞いていたのになぜかこれだけは渋った。父や母が説得してもだめだった。孝が学校に行っている間に犬を返しに行こうものなら随分泣くだろう。
週末になって浩が言った。
「犬を連れてこの住所に行く。どんな人か見てから決める。おまえも一緒に行くだろ?」
「うん……」
住所は二人の住む田舎町から電車に乗って半日かかる大きな町だった。兄弟はリュックに弁当と水筒を入れて背負い、籠に犬を入れて電車に乗った。憂鬱だったはずなのに、孝は遠足気分になって元気が出てきた。孝は兄が大好きだったし、二人で知らない町に行くのはワクワクした。
大きな町の静かな住宅街の細い路地の入り組んだ先に小さな家があって、姉妹が住んでいた。妹は兄弟の話を興味なさそうに聞いた。姉はずっと無言だった。
「うちの犬じゃないよ。この家の前の借主の犬かな。でもその人はもう死んだし、犬だけそんな遠くに行くのも変だなあ」
姉が手を動かし始めた。妹が目をそらすと肩をつかんで顔を覗き込み、何度も手を動かした。意味の切れ切れが妹の頭に染みてきた。
この犬は……会いに来た……あなたは寂しい人……。
「この人はなんて言ってるの?」と孝が聞いた。
「わからない」と妹が答えた。
ゆり子は忙しく手を動かし続け、妹は首を横に振った。兄弟は途方にくれた。浩は犬を連れて帰ろうと籠に入れかけたが、ゆり子に止められた。
「その犬、姉が飼うって」と妹が言った。
兄弟が帰った後、犬は我が家にいるかのようにすやすや眠っていた。妹は手を伸ばしてその犬を撫でてみた。