第57期 #10

スラレタ・スマイル

 改札を出て、変化に気づいたのは連れだった。
「気分悪いのか?」
 唐突に聞かれた俺は首を傾げた。気分が悪いなんて言った覚えはない。どうしてそんなことを聞いてくるのかわからなかった。
「顔色悪いか?」
 俺が訊ねると、連れは心配そうな様子で頷いた。
 俺は駅の便所に行き、確認のため鏡を覗きこんだ。
 見慣れた顔。別に青ざめた様子もない普通の顔だ。これで顔色が悪いと言われたら、ずっと顔色が悪いことになる。大きなお世話だ。
 俺は安心し、笑おうとして、やっと気がついた。
 表情が崩れない。
 俺は鏡の前で固まった。
 どうやら電車の中で、“表情”をすられたらしい。

「最近、多いんだよね、表情すられる人」
 駅長室の奥の部屋で、俺は鉄道警察の担当官にそう告げられた。隣で連れが爆笑している。担当官はイスに座り、被害報告書をへらへら笑いながら、作成していた。
 被害にあった人間を前にしてなにが楽しいのかわからなかったが、俺はムッとした感情を顔には出さず(あたりまえだ)に言った。
「返ってきますよね、俺の表情」
「むずかしいね。ほら、出てきてもそれが自分のだってわからないでしょう」
 正論かもしれないが、俺は無表情のまま、拳を握り締めた。
「生活に支障が出るんですけど」
 自然と強い口調になる。しかし、担当官は笑ったまま、「まあまあ」となだめ、足元のダンボール箱を俺のほうに差し出した。中に大小さまざまなチューブが入っていた。
「応急処置だけど、一つ持っていっていいから」
 俺は箱からチューブを取り出した。
“しくしく(悲)”と書かれていた。
「なんですか? これ」
「それ塗ると、悲しい表情が作れるようになるんだ。ラベルにそう書いてあるだろう?」
「つまり、悲しい表情限定?」
「そういう事。これなら“ムカムカ(怒)”で怒った表情だ」
「いろんな表情が作れるのは? あったら、それがいいんですけど」
「あれはとても高いから、個人的に整形外科のほうで買ってもらうことになる……とりあえず、一番必要なのを一つだけ選んで、持って帰ってくれればいいから」
 一番必要な表情と言われても……。
 俺は適当にチューブを一つ取り出した。すると、担当官が言った。
「それは評判が悪いみたいだ」
 ラベルを見ると、“へらへら(笑)”と書かれていた。
 なるほど説得力がある。
 俺は別のチューブを取り出し、それを顔に塗りこんだ。

“やれやれ(落胆)”
 隣で連れが爆笑していた。



Copyright © 2007 八海宵一 / 編集: 短編