第56期 #21

そなたと朝寝がしてみたい

ザアザアという音に胸弾むときとそうでないときがある。その日は窓を開けるまでもなく雨だとわかった。古田さんは哀しくもあったし、「せいせいしたわい」と伸びをしたくもあった。

クサクサしてるなあ、と灰色がかったブルーのワンピースを着て出ると、なんとなしに谷中の墓地に眠っている友人と話したくなって山手線に乗った。日暮里で京成電車に乗りかえて京成上野へ向う。車窓を眺めているとしみじみと和んで肩の力も抜けてくる。

改札を出ると雨も止んでいた。

「近くの公衆電話からなんだ。俺、光ってんだ」そう言って電話が切れたあの日、懐中電灯を振り回しながら走ってくる友人を古田さんはベランダから眺めていた。恋人でもなく親友と呼ぶ付き合いでもなかった。ただ彼は古田さんに光る棒を見せるのに夢中で車に気づかなかった。

彼の墓前にて胸のわだかまりを話していた古田さんである。が、突然変な唄が聞こえてきて古田さんは我に返った。

「アアー、世はゆウめえかア、まっぼおろォしかあータカタッタ……やや、気づかれましたか、あっこりゃ失敬失敬」
「はあ」
「いやね、お嬢さんの姿があんまり絵になってるもんでネ。今日の風はいいネー新緑と何とかはおいらの生活を貴族にする……お嬢さん、ちょいと映画に行かないかい」

おじさんのような若者だった。シュッと2枚切符を取り出して渡された。古田さんは困惑したもの友人の墓前での不思議な出会いに興味を持った。

「肩車は好きですかい」
「肩車?」
「あい。こうみえても得意なんです」
「やめとく」
「残念」

映画館に入った。アフリカで猛獣を生け捕る話だったが、一致団結して500匹のサルを捕まえる場面があった。ふと若者の呼吸が荒くなっているのに気づいた。ピクピク震えながら「しばらくは花のふぶくにまかせけり」と呟いているところが実に怪しいと思って凝視してみると今度は服を脱ぎ始めた。

(変態?)

古田さんが出ようと決めると若者は手を引っ張った。ふさふさと毛深くて古田さんはギョッとした。人間の着ぐるみを脱いだ猿だったのである。



「猿、あなたに初めて会ったとき、そりゃあ驚いたわ」
「そうかい」
「だって猿だったんだもの」
「ああ」
「携帯もなかったし肩車する猿もいないころだったのよ」
「うん」
「お腹すいたわ」
「赤玉チーズで一杯、どうだい?」

古田さんは夜空に浮かんだ月を眺め、猿はしっかりと彼女の足を首に抱いていつもよりゆっくり、東京を歩いていった。



Copyright © 2007 宇加谷 研一郎 / 編集: 短編