第54期 #23
水曜日。言い知れぬ不安に苛まれたまま、玄関に置いたアルミ鍋をかぶって、冬空の国道を僕はスーパーへ急ぐ。
「檸檬はあるかい」
「蟹ならありますよ」
スーパーの制服を着たアルバイトの女の子が答える。
「蟹かい」
「ええ、蟹です」
僕は蟹を一匹貰って代金を払う。内ポケットに入れた蟹はざわざわと動いてますます僕の不安を煽った。歩くたびに頭の上で揺れるアルミ鍋が、短く切った髪に擦れてちりちりと鳴り続けた。
生暖かい土曜の夜に、少しだけ強い雨が降った。一晩続いたぬるい雨は、街中の言葉を洗い流した。言葉は排水溝を伝い、すべて川へと流れ去った。そうして初めて僕は気づいた。言葉は既に死んでいた。週末までビルを飾っていた言葉たちは、まるで蝶の標本のように煌びやかに死んでいたのだ。死んだ言葉を失くしたままで、看板も標識も広告も、色のない空白を血まみれの夕空に浮き立たせる。無数のビルはどれも同じ灰色をさらけ出していた。僕はもうずっと前から、匿名の遺跡の住人だった。そのことを思うと、僕はたまらなく不安になるのだ。
赤銅色の街はやがて黒く、夜に混濁する。僕は国道ぞいの大きな書店に足を運んだ。軒先ではたくさんの文庫本が山になって、どれもからっぽの白い内臓をさらしている。濁流となって溢れた言葉に押し流されたのだ。その上を何匹もの蟹が歩いていた。蟹がこんなに多いのは、死んだ言葉を食べて増えたからだ。僕はかぶっていたアルミ鍋を山のてっぺんに置いた。ライターで本に火をつけて、蟹を拾って幾つも鍋に放り込む。内ポケットにいた奴も一緒に入れた。くつくつと湯気を立て始めた鍋を前に立っていると、街の人々がやってきて、葱やら蕪やら豆腐やら白菜やらを投げ込んだ。
賑やかな蟹鍋パーティーが始まった。真っ赤に茹った蟹を僕たちは腹いっぱい食べる。どの顔もみんな喜びにあふれていた。とても素敵な気分だった。どこからか詩人が現れて、街中が一緒になって歌った。ハレルヤ。磔された言葉たちは、ようやく世界を廻るのだ。あるいは海の底深く、ひっそり目覚めを待つだろう。あるいは樹々の根に吸われ、風に小鳥と歌うだろう。ハレルヤ。今ふたたび世界はほんとうに生まれる。ほんとうに生まれてほんとうに死ぬ。世界は輪廻に還るのだ。
見上げると凍った空に檸檬色の月がある。今にも破裂しそうに熟した月が、名前のない灰色のビルたちの上に冴え冴えと乗っている。ハレルヤ。