第53期 #8

耳掃除の話

 夏の終わりに母が癌で急逝した。母の手に触れたのはわずかで殆んどの時を僕は死という現実と一定の距離を保ちながら母を見ていた。言葉は口に出す以前に既に風化されてその意味を失っていた。
 大学に戻っても空虚感は拭えなかった。誰かに話しかけられても聞こえてくる言葉はまるで暗号化された音の羅列のようだった。数日後の夜、いつものように予告もなく彼女はやって来た。片手にビニール袋に入ったウィスキーを持って。僕は母のことを彼女に話した。時折彼女は相槌を打ってその場に合う選択肢の中から限りなく適切な言葉を選んで話した。その言葉は久しぶりに心に響いた。いけないことだろうけれど実は母の骨の一部を持ち帰ったことを告げると彼女はそれを見せてくれないかと言った。僕は引出しから母の骨を包んだビニールを渡すと彼女は触っていいかと訊ねる。僕が了解すると彼女は指先でそれにしばらく触れて小さな破片を摘まむと口に入れてウィスキーで流し込んだ。僕はそれをただ見ていた。
 「何となくこうしたくって。怒った?」と言う彼女に僕は首を横に振る。おいで、と言うと彼女は両膝を前に突き出す格好をとる。僕は何だか懐かしい柔らかな意識の中で彼女の膝に頭を載せる。その姿勢のまましばらくじっとしていると彼女の熱が僕に伝わってきてとても穏やかな気持ちになっていった。耳の穴が汚れているよという彼女に、じゃあ耳掃除をお願いしていいかなと頼むと彼女は何だかはしゃいだように僕に耳掻きの場所を聞くとそれを見つけてよしよしと耳掃除をしてくれた。何だかとても切ない気持ちになった。
 「死んだじいちゃんの遺言なんだけど、信用出来ない人間に耳の穴を掘らすなって。」
ホント?と言う彼女に冗談と答えるとぷっとなって二人でしばらく笑った。
 僕が二十歳の誕生日を迎える数日前の月曜日に彼女は姿を消した。教授も一緒だ。僕の仕事は自由業みたいなものだからねと言う彼らしい突飛な行動だった。彼女が消えた日に僕の郵便ポストに入っていた彼女の古い外国製のジッポーは最後の春休みに行ったインドでのバンガロール行きの寝台列車の中で紛失してしまった。母の骨は旅の当初の予定通りガンジス河に流した。そして僕は大学を卒業し社会に出て行った。
 今でも時々あの耳掃除のことを思い出す。〈ほらっ、こんな大きいのが取れた。〉それは彼女の声のようで母の声のようで僕はそんな風にして眠りの中に落ちていく。



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