第51期 #20
ふわふわしたワンピースで社内を颯爽と駆けまわる古田さん。彼女の机に積み上げられた書類はあっというまに片付けられる。同僚がトラブルに蒼ざめ、ノルマに必死な中、古田さんはコートを羽織って社を出る。この秋に新調したばかりの程よく細身なベージュ色のトレンチ。ワンピースのボリュームを抑え、ぴったりなシルエットが美しい。
古田さんは専門こそ法律だったものの哲学が好きだった。ハイデッガー研究者で新進気鋭の教授にアレントの話題を持ちかけて盛り上がったり、黒ぶち眼鏡の院生と「存在」について議論を交わしては知的遊戯を楽しんだ。休日は古今東西の名画、音楽に片っ端から触れていった。知識が増えていくのが嬉しかったのだ。彼女の頭の中に、たとえばクライバーの振るオペラだったり、ルビッチの撮る物語が蓄積されていく。(知らなかったことを知るというのはなんて快感なんだろう!)と細胞が活発に働くのを彼女は愉しむ。
ところが知ることよりも得たものを「どうやって人生に取り込んでいくか」と考えるようになっていった。見かけより情熱の人なのである。やがて語るよりも語らせる側になった古田さんは同僚の誰にも本音を話すことはない。
押売りが古田さんの家にやってきた晩は普段より冷え込んでいた。古田さんはピリスのモーツァルトソナタをかけながら、台所に立っている。
「包丁買ってくれよ」
外から男の声がする。
(いまどき押売り?)
苦笑しつつ「刃が薄いタコ引きあるかしら」と聞いた。
「僕、よく知らないんだ。包丁もほら、この出刃しかない。買ってくれるかい」
(どうして押売りが“僕”なの?)
「それ切れるの」
「試してみる?」
「鰯があるの。おろしてちょうだい」
「僕にまかしといて!」
部屋にあがった押売りは緊張しているようだった。
「ほら、うろこの次は頭、お腹の皮もしっかりとってよ、洗った? じゃ開いて。骨をそいで。あなた、駄目じゃない」
「うん。駄目なんだ」
結局古田さんが、おろした鰯でしょうが煮をつくった。
「うまい、うまいよ」
押売りは何の取柄もなさそうである。
「もう一杯いいかな」
「いいわよ」
「なんかいい音楽だね」
「そう?」
「この食器きれいだ」
「ありがとう」
「あ、古い日本の絵だね」
「そうよ……」
「本がたくさんあるね。好きなのかい」
「うん」
「僕の知らない世界だな」
「あなたって何にも知らなさそうね」
「うん、知らないんだ」
古田さんは押売りが食べるのをじっと見ていた。