第49期 #15

スザンヌ・ヴェガ

 男が目を覚ましたのはもう正午を過ぎたころだった。アルコールがまだ残っていてやたらに口の中が粘ついた。隣には女が眠っている。男は女の手を取り爪を眺める。何も塗っていないその爪はとても健康的で綺麗な形をしていた。男は自分の爪を見てみる。爪先はぼろぼろでささくれだっていてそれは実に醜い代物だと思う。それが彼自身の姿だ。
 男の安アパートに入ると男はすぐにベッドに沈み込んだ。やがて規則的な寝息が聞こえてくる。女は書棚の多くもなく少なくもない本を眺めて男がどんな人間なのかを推察しようと試みるがすぐに止めた。ベランダには名前の知らない数種のハーブが植えられている。それらの葉末に指を添わせて爽やかな芳香を嗅ぐ。ベッドに入り男に背中を向ける形で横になる。ぼんやりしているうちにやがて眠りが訪れた。
 薄麻のような意識の中で身体は鈍重な鉛のように気だるかったが女に回した両腕の感触はとても柔らかくて心地が良かった。背中に鼻先を押し付けて匂いを嗅ぐと何故だか男はとにかく泣きたい気持ちに駆られた。そしてこの十年で自分は何を得て何を失ったのかを何とはなしに考える。日常の沢山のことが二十歳の頃とはまるで違う意味合いを帯びて男に問いかける。〈お前はこの十年で一体何をしたというのだ?〉と。一瞬不安に囚われると男はまた女の背中に身体を摺り寄せる。そこには生きている体温があってそして世界は男の意識とは関係なく充足していた。その匂いはかつてどこかで嗅いだことのある香りだと男は考えたがそれが一体いつどこでなのかを判別することは出来なかった。数週間後に男はその香りが母の匂いに似ていたと気付くことになる。
 男の気配を背中に感じながら女はうっすら現実の世界に覚醒していく、が眠っている振りをする。薄目を開けて男の回した手を見る。どちらかというとふっくらとした手だ。肉体労働をしている手ではないと思う。深爪で皮膚感は何となく幼くて成熟した男の手には見えない。手を見れば大体その人について分かると誰かが言っていたのを思い出す。目は訓練すればいくらでも嘘をつける。でも手は別物だ。それはその人物を確かに語る。女は父親のゴツゴツした手がとても好きだったことを思い出す。頬に触れられると硬くて痛いくらいのそのゴツゴツした手の感触。そこで女は突然思考を中断させきつく目を閉じる。
 変化が近くまでやって来ている。
「おはよう。君は誰なんだ?」



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