第48期 #1

ある哲学者の余生

暑かった。
覆いかぶさるような陽光の中、目を覚まし、呻き声をあげた。太陽はすでに中天に達していた。妙にぼんやりしている頭はカーテンを閉め忘れていたからに違いない。ひとまず彼はそう思い、キッチンに行き、顔を洗い、コーヒーを淹れた。その後、家事を適当に済ませると、もう一度キッチンでコーヒーを淹れ、ベランダに出てそれを一口啜ると、そこで漸く人心地ついた。
ベランダの縁から身を乗り出し、思いに耽る様子で、ぼんやりと景色を眺めた。生活を決まった型に嵌めないことで、日々を長く退屈に過ごそうという彼の試みは成功しているようだった。グラスの中の氷を弄びながら、彼はまた思索を進めていった。

ふと、遠くから歓声が響き、彼の思索は中断された。球場の観客が六甲おろしを歌っているのだった。気付けばすでに空は緋色に染まり、歩道では学校や会社帰りの人間がまばらに行きかっていた。彼にはそれら全てが物憂げに感じられた。
この部屋に住むようになって十年たった今でも彼には、彼ら観客のことが理解できなかった。球場から歓声として届くいびつな狂気を、僅かに嫌悪してさえいた。
頼みもしないのにこの世界に産み落とされ、自らの意思に関係なく死んでいくこと。今、突然死んでしまうかもしれないこと。今、何の前触れもなく世界が終わってしまっても不思議ではないこと。あの観客達が人生で最も大事なことである全てのことから眼を背けながら、ただひたすら手の届かないものに熱中していることが不可解で、心の底から哀しかった。「お前たちはもうじき死んでしまうのだぞ!」と言ってやりたかった。彼は心底死を怖がっていたのだ。
そして、彼はまた考え始めた。この「私」が死んでしまうとは一体どういうことなのだろうか。死んで私は「無」になるのだろうか。永遠に「無」であり続けるのだろうか。いや、時間に空間的変化などありはしない、未来も時の流れも錯覚だ。……。

夜の帳が落ちる頃。彼は漸くベランダの縁から身を起こすと、それまで手に持っていたことを忘れていたのか、グラスをベランダの外へ落とした。宙に舞うグラスは闇の中で僅かな光を受けて煌くと、そのまま地面で砕け散った。
砕けたグラスの破片はただ「意味」でしかなかった。彼は歩道まで降りると散らばった破片を見詰め、「ああ、これが無なのだな」と思った。そして、その破片を残らず拾い集め、埋めてやることにした。
それで、彼は満足した。


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