第46期 #22
風呂場からのそのそやって来た父は、わたしが作った夕食を眺めて居心地悪そうだった。洋食主体だという事もあったろうが、たぶん、こうやって誰かに夕食を作ってもらう事から離れ過ぎていたからだろう。そういうわたしも誰かに作ってあげる事から離れていたから、父の目には居心地悪そうに映ったかも知れない。
二十年振りに実家に帰って来たのは、新作の小説のためで、この山奥に出る生き物について取材しに来たのだ。
それを初めて見た時は四歳だったろうか。猟から帰って来た父を出迎えた四歳の子供には、それは人間に見えた。体毛がなく、ほぼ肌色で、体長一メートル半ほど、枯れ枝のように細い事を除けば四肢と体のバランスは人間と同じ、手足の指の数も五本と同じで、頭は小さくて丸く、白い毛が薄っすら乗っかっていて、顔の正面についた大きな両の目は飛び出すように突き出ていた。一番不気味に感じたのは、驚くほど小さな口で、アリクイのように長い舌を出して小さな虫を食べているそうだが、あれではきちんと喋れないではないか、と四歳のわたしは言い、父に笑われたのを憶えている。
それは地元で『カタリ』或いは『カタリさん』と呼ばれている。これは『騙り』の事で、人間の姿に似ている事からついた名だ。蔑称なのは、カタリの奇妙な習性に由来する。カタリは、まったく捕食のためではなく、生き物の目玉を刳り抜くのだ。わたしが子供の頃よく遊びに行っていた家のおじさんも、右目を抜かれていた。四十年昔には、そういう人たちがこの村にはまだ少なからずいた。今はどうなのかと父に尋ねると、今年九十二歳になった田鍋さんがいるだけだと教えられた。
翌日田鍋さん宅を訪ね、中村の娘ですと挨拶すると、相手は憶えているよと微笑んで歓迎してくれた。両目とも瞑られていた。
田鍋さんはカタリについてこう語った。「あいつらは、見ることにとり憑かれておる。喋ることを知らん。考えることを知らん。人間のなり損ないじゃ」
人間のなり損ない。
田鍋さんのその言葉に、わたしは子供の頃からのつかえが取れた気がした。そして、そう言った田鍋さんに対して、はっきりと恐怖を覚えた。
カタリは、日本名を『ヒトアリクイ』という。身も蓋もないけれど、その名前は人というよりはアリクイという感じで、『カタリ』よりもずっと親しみ易い。
そのヒトアリクイは、集めた目玉で何をしているのだろう。
何を見ているのだろう。