第46期 #1

藍紅

 『紅の一』
 もし、あのおばあちゃんの話が本当だとしたら・・。私は孝夫に恩返しをするしかない。もしも今、彼が目の前にいたら言ってあげるのに・・・『待ってたよ。ずっとずっと待ってたよ』・・・。その瞬間、「ぎゃー」という声が、突風のようにヘッドフォンのピアノの音をかき消した。(えっ?)突然、美幸の乗っていた車両の奥のドアがたたきつけられるように開いた。そして人々が波のようになだれ込んできた。次から次へと折り重なるように何十人もの人が、地獄の獄卒からでも逃れるかのように恐怖の表情でこちらにやってくる!『助けてくれー!』
 『藍の一』
 孝夫が座るのと同時に電車は動き出した。孝夫は、美幸との先週のできごとを考えていた。なぜもっと素直にありのままでいられないんだろう。美幸とは最初に出会った時から妙な安心感を感じていた。(あぁ、戻りたいなぁ。)一瞬、間をおいてから急激に心臓がドクンと鳴った。(なんだ?)そして、胸が締め付けられるような圧迫感が一気に襲ってきた。苦し・・。そのとき、背中の奥で低く強く、みしりと鳴った。恐怖が襲ってきた。みしっ!バキッ! 孝夫は、意識が急速に遠のいていくのを感じた。周りの人々の無数の叫び声が皮膚を振動させている。そして、意識の回路が中断される直前に、なつかしい声が聞こえたような・・・(待ってたよ・・ずっとずっと待ってたよ・・)気がした。
 その車両に乗っていた人間は、今まで生きてきた中で最大の恐怖に見舞われていた。地下鉄の車内にこつぜんと姿を現した、孝夫と呼ばれていたそいつは、もはやこの世のものではなかった。みるみるうちに丸くふくれあがった青紫色の背中は、Tシャツをびりびりに引き裂きながら天井の蛍光灯を破裂させた。耳まで裂けた口から、無数の牙が二重三重に重なりながら伸び、牛のようにだ液を垂らしている。そして、こぶのように盛り上がった眉間の皮膚を突き破り、黄色がかった鋭利な物体が飛び出した。その物体は、血しぶきを上げながらみるみるうちに竹のごとく伸び出した。それは、まぎれもなく角だった。
 『紅の二』
 美幸は、人として生きてきた二十四年間の最後の記憶となる、彼の雄叫びを聞いて、微笑んだ。美幸の心臓が、誰かに握られたように上下に強く波打った。そして、身体の奥で何かが回転するようにねじれていった。みしっ!バキッ!やっと恩返しの時がきた。でも村人はいなかった。



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