第44期 #2

休日

全く、休みだからなんだってんだ…
 唇を開かず小さく舌打ちをした。ゆっくりコーヒーを口に運ぶ。カップの中には もういくらも残ってない。冷めた琥珀色のそいつがわずかに清の口を濡らしただけ。
 もう、そろそろ出なくちゃ行けないか?さっきからウェイトレスが何度も彼のグラスに水を注いでは忙しそうに脇をすり抜ける。
 ここを出たら どこに行こう。
 ポケットの中には くしゃくしゃの千円札が一枚、それをもう何度も確かめていた。いや すでに これから支払うコーヒー代の為にそいつは千円札であることをやめていた。
 せっかく 出てきたんだ、何か楽しみたい。
(家に帰るか?)
 すぐに、出てくる時の光子の掃除機をかける顔を思い出し、気が萎えた。面倒くさそうに、それでいて神経質な掃除機の使い方は光子の不機嫌を表していた。平日働く光子は掃除機を念入りにかけるのは休みの日だけなのだ。
 掃除機をかけられない平日への不満はそのまま、共稼ぎをさせる夫への不満なのだ。
 新聞でも、と思ったがやめた。
(だいたい喫茶店で、家の居間でやるべき事をわざわざやる奴の気がしれない……)
 
(本屋にでも行こうか)
 そう思ったのは 店のドアを開けてすぐに通りの向こう大きな本屋が視界に入ってきたからだ。
(ん?あぁ ここは あそこか)
 頭の中で カチっと 音がするように記憶がつながる。
 学生の時 よく通った本屋だった。ちょうどこの角度から見た景色に覚えがあった。滅多に出てこない町の通りに、古い記憶は錆び付いていたようだ。
 建物も 道路の様子も 様変わりして たった今まで 気がつかなかったらしい。
 本屋の記憶から 学生時代の記憶が 堰を切った。
 新しい建物に 昔の建物が重なって見えてくる。店の前に赤いセーターの女の子が人待ち顔で立っている。
 光子だ。
 清の視界の中で赤いセーターの女の子は若い光子の顔になってみせた。
 ちょうどその時”光子”に若い男近づいた。どのくらい待ったのだろう。長い時間待ったから 待ち人がそんなに嬉しいのか、その場に立ったとたんに来たから 男の誠実さが嬉しいのか。実にいい顔で男を迎えた。
 貧しい学生だった清は 光子との 待ち合わせは いつも本屋だった事を思い出した。
 そうだよな…あいつは いつだってちょうどあんな顔で 俺を待ってたんだ。

 3月はまだ寒い。暖房の利いた店から出た清は 身震いを一つした。
 家に帰るか・・・



Copyright © 2006 鈴木 真理子 / 編集: 短編