第43期 #9
赤いワインを飲みながら、彼女とふたり延々音楽の話をする。
目が悪いと光がぼやけて綺麗に見えるから得した気分と彼女が言う。僕は1.5の右目を閉じて0.7の左目だけで彼女を見る。彼女の瞳に映った光が小さな点で見える。テレビの上のアロマキャンドルが黄色く揺れる。彼女の口元で煙草の先が一瞬赤くなる。
小さなキャンドルと小さな白熱灯の光だけの彼女の夜は薄い茶色の空間になる。蛍光灯のデスクライトに慣れた僕の目には大層少女趣味に思えたが、0.7の左目の世界は淡く心地よかった。チャっと軽快な音を立てて僕の周りが明るくなって赤い黄色の光がキャメルを赤く燃やす。
コーネリアスの水の音が一番綺麗に聴こえるという黒いスピーカからは僕の知らない女の子の歌声が流れている。
そのまま茶色の空間を無言でぼうっと過ごす。右手に微かな熱を感じ、両目で灰皿を探す。赤い光が見えなくなるまで念入りに煙草を揉み消し、少し残ったグラスに手を伸ばす。
tommy february、すき?彼女が言う。この音楽はtommy februaryだったのかなと思う。ううん、あんまり。僕は言う。彼女が少し僕に近づく。鼻が僕の首に少し触れる。少し彼女は顔を離し、そのまま僕にキスをする。僕は両目を閉じる。
唇が少し触れたり離れたりを繰り返す。唇を少し離すと、彼女が近づき、まだこうしていていいのだなと変な安堵を感じる。唇以外はどこも触れない。左目を少し開けると彼女の右目と目が合った。今度は僕から近づき唇が触れる。部屋は茶色いのに彼女の頬は白い。唇を離した隙にtommy februaryが好きなの?と訊ねる。すぐにまた触れ、離れる。ううん、あんまりと僕と同じ答え。これtommy feruary?違う。その後は無言でまた触れたり離れたりを繰り返す。それはちっとも官能的ではなくセックスのような快感もない中学生のようなキスで、淡い気持ちが淡く脳に広がってゆく。また少し目を開けて、黒い彼女の目を見る。少し長い間、唇が離れた後、軽く触れ合い、何もなかったかのように彼女は離れ、赤いワインを一口飲んだ。キャンドルがグラスに映り強い光を放っていた。