第42期 #1

砂糖



 目を覚ますと、ちょうど母が玄関のドアを閉めた所だった。
 あるいはドアを閉めた音で目を覚ましたのかもしれなかったが、しかしそんな事はどうでもよい、と思い、体を起こすことにした。窓の外はすでに薄暗かった。
 茶の間に出ると、姉が今日の祝宴の為のケーキの準備をしていた。
 テーブルの上のラジオから流れる彼女のお気に入りの歌が、ぼくにはひどく耳障りだった。
 何をするわけでもなくぼうっと蛍光灯から垂れ下がった紐のあたりを眺めていると、姉が砂糖をきらしたので買ってくるように言った。
 ぼくは気が進まなかったが全く準備に参加しないわけにもいくまい、と思い、引き受けることにした。
 宴は参加者が作るものだ。
 玄関のドアを開け、



 彼は廊下に出た。それから暗い階段を下り、オートロックの自動ドアをくぐった。
 彼は、この地下室があまり好きではない。
 この部屋は広すぎて、余白ばかりで、そのくせ圧倒的な数の他人は彼の居場所を奪ってしまう。
 彼は急に心細くなり、昼食の後、一緒に買い物に行こうと母に誘われた事を思い出した。
 こんな日に母と二人で出掛けている所を友人にでも見られたら、と思うと、とても頷くわけにはいかなかった。
 が、やはり一緒に出掛けるべきだったのではないか。母は広い部屋のどこかで迷っているのではないか。
 そんな事を思いながら彼は、建物の前の道路まで出ていた。
 それから、彼の地上がある10メートルほど上の窓を、じっと見つめ、心に焼き付けた。
 これで、迷わない。
 そう呟いて、彼は砂糖と母を捜して街に出た。



 街は、活気に溢れていた。赤と緑と白のパノラマ。透明な無数の個人。
 装飾が施された大樹の下で、徐々に鮮明になる一組の男女。はじめからそこにいたかのように突然浮かび上がる少年たちのグループ。
 彼らは輪郭を得ると、確かな足取りで通りの向こうへと消えてゆく。
 その木の下を、ストライプのネクタイが、毛皮のコートが、スーパーのビニール袋が、赤いハイヒールが通り過ぎる。
 ビニール袋を持つ手と、チキンの箱を持った中年の女の姿が浮かび上がったのは、その大樹から100メートルほど離れた交差点であった。



Copyright © 2006 奥村 修二 / 編集: 短編