第38期 #6

書架の亡霊

 それは中学二年生の、真っ白な夏の話。

 その頃、世界は明るい表情を取り繕うのをやめていた。甘い砂糖菓子に慣らされた子供達に、社会通念やら自由経済やら言うバリュームを飲ませて泣きっ面を拝むのが「そいつ」の無上の喜びだった。
 何人かの子供達は抵抗しながらも「そいつ」の言いなりになった。何人かの子供達は、寄り添って夢の抜け殻を分け合い、せめて仲間内でだけでも甘ったるい砂糖菓子を味わおうとした。僕はどちらにも属さなかった。敵に迎合するでも群れを作って逃避するでもなく、僕は知性と孤独な観想を武器に世界と戦おうとしていたんだ。
 そう言った人間の常として、僕は夢想癖とシニズムを併せ持った少年だった。そしてそう言った少年を受け入れてくれる場所は、この世に図書館しかなかった。デカい図書館って牢獄みたいに堅牢だろ? あれは荘厳さを演出するためじゃないんだぜ。僕みたいな奴を追い込んで隔離する為には、あのくらい堅牢にならざるを得なかったのさ。尤もそこがこの世で唯一、「世界」の眼から離れた場所になってたのは皮肉だったな――何せ奴と来たら、知性と文学が大の苦手だったんだ!
 
 図書館通いにも慣れて、何処の棚に何があるかを把握した頃、夏が来ていた。
 僕はいつものように誰もいない二階の奥まった席に掛けて、小説を読んでいた。項は滞りなく捲くられ、活字は絶え間なく消化され――いい加減物語の中に意識が没入した頃、唐突に声を掛けられたのさ。

「……いつもいるね」
 恐ろしく寂しい声だった。

 死後の世界、違うな、生まれる前の世界から声を掛けられたら、あんな感じだと思うぜ。
 僕は思わず振り返り、そして見たんだ。無機質な程に明るい夏の日差しで、白と黒に塗り分けられた書架の列を。すきま風を孕んで、幽霊のように翻るカーテンを。
 そして棚の影からじっと僕を見つめている、ぽっかりと口をあけた「寂寞」を。
 一も二も無く逃げ出したね。
 で、悟ったんだ。「世界」は知性と文学を恐れたんじゃない。「寂寞」を恐れたんだ。「世界」は子供達に生臭い世界を強いたんじゃない。あの限りなく散文的な空虚から守ろうとしたんだ。
 僕は今じゃ普通に高校を出て、普通に会社員をやってる。あんなのの世界に居るよりずっとマシだね。でもまあ、もう「寂寞」に出逢う事ももう無いんだろうさ。
 あれは中学二年生の、永遠に白い夏の事だ。
 それ以上でもそれ以下でも無い。



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