第33期 #5

ダンディの憂鬱と涅槃

「もう行くの?」
 古臭いブルースの流れる薄暗い店内。俺はウィスキーグラスで顔を隠し、女の視線を避ける。女の話など聞いていなかった。そう、俺はひどい水虫持ちだった。今夜はいつにもまして苛烈な掻痒感が16ビートで俺の脳髄を打っていたのだ。
「冷たいのね」
 冷たい? そうだ俺は冷たい水で足を洗いたいんだこれ以上引き止めるな俺が足を洗った水で顔を洗って出直してきやがれ。
「電話するよ」
 俺は女の頬を伝う涙を指で掬い、グラスと勘定を置いて店を出た。
 行きつけの薬局のシャッターは閉まっていた。俺は頭の中でたっぷり30秒はさっきの女に悪態をついた。その時、店影の路地から、怪しげな中華服の男が怪しげな日本語で俺に話しかけた。
「いい薬あるよ」
 俺は男の差し出す名刺をひったくった。書かれた住所に行ってみると、店の看板は「LAP SOULS」。その下に大きな筆字で「楽法僧」と描かれていた。
 扉を開けた瞬間に大音響のラップが響き渡る。歌詞は般若心経だった。サイケデリックに装飾された店内で響き渡るラップの読経。ステージでは真っ赤な褌を締めた男達が、しゃっくりするような歌に合わせて前後にステップしながら木刀を振っている。
 カウンターで名刺を見せると、坊主頭のバーテンがグラスを差し出した。俺が手を出すと、腕を引っ込める。手を戻すと、また差し出す。手を出す、引っ込める……
 俺はバーテンの腕をむんずと掴み、グラスを取り上げて濃い色の液体を一気にあおった。
 刹那、音楽が止んだ。
「全てを捨てなさい」
 いつの間にか俺は褌野郎どもと一緒にステージで木刀を振っていた。腰には同じ真っ赤な褌、身一つ他に何もなし。奴等と俺は軽やかなステップを踏み、木刀を上段に振りかざし、振り下ろす。男共が身動きすると猛烈な体臭が噴出し、呼吸とともに殺人的な口臭が俺を包んだ。最早水虫どころではなかった。俺はこいつらと一緒に、ただひたすらに踊る。構え、打つ、構え、打つ。息を合わせてむ、は、む、は。吐くたび口臭、打つたび腋臭。
 そうだこれこそ俺の求めていたものだ。俺は水虫は褌野郎どもは三千世界は一つになり、こころ、心、ココロハ開かれレreれ……

 それからどうなったかって? 決まってる。誰のものとも知れない褌を締めて一晩中踊った俺は、水虫だけでなく、ひどい陰金田虫持ちになってしまったのだ。今夜も俺はコートの襟を立て、閉店間際の薬局に滑り込む。



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