第32期 #7
瀟洒な喫茶店の軒下に設置されたささやかな屋外席の白い椅子に掛け、雨に煙る街を眺めるとも無く眺めている。傘。滲む信号。飛沫を上げるタイヤとクラクション。目を細めれば、雨滴がモノクロの風景に白い傷を引いていく様が観察できた。
相席の少女が紅茶を飲みながら、やっぱりクインズ・ホープは違うわと気取った風に呟く。生憎と私は紅茶の事を良く知らない。そればかりか目の前の少女の事すら知らないのにと考えたところで、私はなぜこんな所に居るのかという疑問に行き当たる。暫く考えても思い出せなかったので、学校の帰り道で雨を嫌った事にした。
「この雨は何日降り続いているのかしらね」と少女。
「判らないけど、この雨は景色にすっかり馴染んでいるね」と私。
「私、雨が好き。世界をオブラートに包んで、暈してくれるから」と少女。
「そうね。真っ直ぐに見つめるには、世界は少しばかり露骨過ぎるよね」と私。
軒の外で、すべての物が溶け始める。人も車もビル街も、長すぎる雨に耐えかねたように少しずつ輪郭を失っていく。確固たる世界が角砂糖のように溶けていく様を、私は格別の感慨も無く一瞥する。
「この雨は、きっと雑然とした物が嫌いなのね」と彼女。
「重い物と露骨な物も嫌いなんだと思う」と私。
「この雨が上がったら、どこか遠くへ出かけましょう」と彼女。
「うん、雨に洗われた濁りっ気の無い世界を、一緒に見て回ろう」と私。
排水管は狂ったように水を吐き出し、側溝からは汚水が沸きあがる。地面に溜まった雨はどんどん高さを増し、膝に迫ろうとしていた。どうすれば良いのかと周章しかけたが、相席の少女が落ち着いた様子を保っていたので、私もそれに倣った。
やがて喫茶店の両脇の建物が崩れ、滝のような水が流れ出す。大量の水は、融解して斜面を形成したアスファルトを、さながら流水階段のようにどこまでも下っていく。沢山の物が流れ去り、沢山の物が失われていく中で、少女は学校指定の鞄から煙草を取り出し、慣れた様子で火をつける。
「もっとしんみりしちゃうかと思った。犠牲は何も語らないのね」と彼女。
「なかなか気の利いた台詞だけど、それより先に、新しい世界にようこそって言ってよ」と私。
私も鞄の中から煙草を出し、顔を近づけて火を移して貰った。キスのメタファみたいと笑いながら、今更ながらやってきたウェイターにクインズ・ホープを注文する。もう少しの間、雨は降り続くのだろう。