第31期 #6

人生の対策と傾向、第一話

 ケキャール派遣会社からの紹介で向かった会社は四階建ての古いビルだった。
 階段を昇っている時に建物が傾いている気がした。形だけの受付には不釣合いに大きな絵がかかっていた。風景画とも人物画とも抽象画ともつかない変な色合いの絵だった。案の定、その絵はすこし右に傾いていた。
 わたしはその会社で働くことになった。建物の傾きにも慣れ、デーブルの上に置いたコーヒーカップに一日一度は手を添えておかないと滑ってしまうことも苦にならなくなった。机は傾いているが、業績は右肩上がりというわけにはいかないようだった。わたしはいつもキーボードに手を置いたまま首をうなだれて居眠りしていた。
「すみませんが」
 裏返しの声で「はイ」と返事をした。背後に立っていたのは、河童だった。ここは着ぐるみ相談所ではない。宣伝だとしても保険に入る必要を感じていなかったし、情けないけどそんな余裕はなかった。
 あのう、と声をかけた。なぜか河童の顔は真っ赤になっていた。そしてそのまま廊下に出てしまった。わたしはそのまま河童の後を追った。
 扉のところで、部屋に戻ってきた河童とぶつかりそうになった。頭の皿から水が滴り落ちていた。「ここ傾いていますね」と彼は言った。そう言っている内にも二人の間に水がこぼれていく。
「相談ごととはいったいなんでしょうか」
 きわめて事務的な口調で言ってみたが、河童は飄々としたもので「うーん、このビルはどうも傾いてやしませんかの。空調の効きも悪し」と言い捨てて、二度目の水分補給に出かけていった。空調の悪いのなんて河童に言われなくてもわかっている。
 雑巾を引っ張り出してきて、河童の皿よりこぼれた水を拭こうとした。
 その水は魔法瓶の中のお湯を思わせる温度だった。思わず給湯室へ手を冷やしに駆け込んだ。
 河童は流しの蛇口の下に身を乗り出して、頭の皿に水を満たしているところだった。
 強引に河童の皿にたまった水に手を置いて冷やそうとした。
「あづい」河童が素っ頓狂な声を出した。
 あわてて手を退けたが皿の上には平手打ちでも食らわしたような手形が赤く残っていた。わたしは首をかしげながら河童に詫びた。それから、このビルと同じように頭を傾けてみたらどうかと提案した。
 そうか、と河童は首を傾けた姿勢で、そのまま階段を下りていった。
 わたしも首をかしげたまま「じゃあ」と彼を見送った。


Copyright © 2005 安南みつ豆 / 編集: 短編