第280期 #1

苗字

「ウチは苗字が珍しい。全国に百人くらいしかいないんだ。だから悪いことは絶対にするな。悪名は一瞬で広まるからな」 祖父から父へ授けられた教訓を、私は耳にタコができるほど聞かされて育った。

そのおかげで、私の青春は至って穏やかなものだった。喧嘩は一度もせず、カンニングとも無縁。就職活動で履歴書を盛る勇気もなく、仕事でズルをすることもない。「苗字が珍しいから、善行を一つ積めば一気に有名になれるのでは?」と考えたこともあったが、そんなドラマチックな出来事は起きなかった。

メリットといえば、営業先で一発で名前を覚えてもらえることくらいだ。初対面の得意先には必ず「珍しい苗字ですね!」と言われる。ただ、名前の方は平凡なので、結局「珍しい苗字の彼」としてしか認識されないのだが。

そんな代わり映えのしない日々を送っていたある日、ニュースが飛び込んできた。 同じ苗字を持つ研究者が、世界的な賞を受賞したというのだ。

「へぇ、百人しかいない同姓の中に、こんなにすごい人がいたのか」 他人事のように感心していたが、私の生活は一変した。 レストランを予約すれば「あの科学者のご親戚ですか?」と聞かれ、否定してもなぜか食後のデザートをサービスされる。買い物でカードを出せば店長が飛んできて「同じ苗字の方にお会いできて光栄です」とおまけをくれる。営業先でも、まるで私が偉業を成し遂げたかのように歓迎される。

「いや、本当に偶然なんですよ」 そう説明して回るのもいい加減疲れてきたが、悪い気はしなかった。

久しぶりに実家へ帰り、父にあの科学者の話題を振ってみた。 「ああ、彼か。……実はな、相当遠い縁だが、一応親戚なんだよ」 父がさらりと言ってのけた。

「……えっ?」 驚きはしたが、同時に妙な納得感が胸に落ちた。 他力本願ではあるが、ようやくこの苗字が、私に本当の「利益」をもたらしてくれたのだ。 私は心の中で、今日まで遠慮していた過剰なサービスを、明日からは謹んで受け取ることに決めた。



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