第277期 #2
「男のくせに気持ち悪い」
父の声がロッカールームに響いた。その言葉にチームメイトは曖昧に笑った。体が凍り付き、ぬいぐるみキーホルダーを咄嗟に隠した。手からはみ出した●×●が哀しげに微笑んでいる。
父の率いる少年野球チームで僕たちは負けた。僕が責められる役割だった。誰よりも強くならなければ。朝練は真っ先に行き、練習中は怒鳴られ、夜は自主練。母も姉も黙っていた。
お小遣いで買った●×●は唯一の味方だった。目が合うと笑い、悲しい時は涙を吸い込んでくれた。あの日、その親友を捨てた。笑ったままゴミの中に埋もれていった。強くなるために必要な筈…だった。
試合の9回裏、逆転のチャンスが巡ってきた。バッターボックスの地面を強く踏み込む。バットを振ろうとした瞬間、ベンチから父の激が飛んだ。ぐらり視界が揺らぎ——目を覚ますと僕はベッドの中にいた。
天井を見ながら外の音を何年も聴いた。家族の喧嘩する声や下校をする学生の笑い声。●×●を友達を味方を捨てたから、罰が当たったんだ。熱いものがこみ上げて堰を切ったように泣いた。
通りかかった姉が驚いてドアを開けた。猫の…とつぶやく僕にぬいぐるみを渡した。古くていびつ…汚い臭い。
「名前は?」
「チュンダだよ。気に入った?」
「変な名前」
人と話したのはいつぶりか。姉はそれ以上何も言わなかった。チュンダに触ると温かなものが体に流れた。張り詰めていたものが解け、なぜか起き上がることが出来た。細くなった足で部屋を歩く。息切れした。
しばらくすると、柔らかさに包まれたくなった。着ぐるみを着たり、女装してみる。
ふくらむ ふくらむぼくが ふくらむそとへ あねのこえが ちぢむ ちぢむくちびるに るーじゅが るーじゅがこぼれて ますからますから まつげながれ たっぷりとける とけるぼくは まるく まるくつつまれ ぼくじゃないぼくが ふくらむ
廊下に出てみた。父がいた。痩せ細り小さくなっていた。目が合うと、驚きとともに少しおびえた顔をしたが何も言わなかった。バットはカバーバックのまま、玄関に置いてある。 心が痛い…けど——。
怪訝な視線をぬってハイヒールで街を歩く。捨てたはずの●×●は今も呼吸してる。僕の中で静かに、でも確かに。体の奥で膨らみ溶けながら、膨張し続けて僕の形を変えていく。僕を、世界を、優しさで包み込むために。