第270期 #1

私の手

 脱いだ服はそのまま、食べたお菓子の袋もそのまま、山となった体操服に、散らばった問題集、並べてある空いたペットボトル。
 「部屋の片付けは?」
 「学校から手紙あったよね?」
 「提出物いつまでなの?」
 「宿題はちゃんとやった?」 
 今日もまた同じようなセリフを繰り返し続けて、もう何年過ぎたろうか。
 言い続けている言葉たちは、本人の改める姿勢も見いだせないまま、空虚な呪文のようで、私は肩を落とす。
 確かに幼稚園の頃までは、私は息子にとって魔法使いで、今日の幼稚園の給食を当てることもできたし、信号を青にすることだってできたし、その効力はもちろん息子にも届いていたから、幼稚園の手紙はその日のうちに手元に届き、上履きは土曜日には幼稚園から無事に帰還し、洗って月曜日に持たせることができた。
 しかし、信号は変わるタイミングがわかればそれらしく見せることができ、給食はお知らせが幼稚園から届けば、その日の内容を知ることができると気がつけばついに、私の魔力は尽きてしまった。
 それで私のところへ学校からの手紙は届かなくなり、上履きは永遠に学校にとどまり、ゴミは息子の部屋に住み着き、「片付けなさい」という呪文を叫んでも当の本人は「えへへ!ごめんごめん」と言うばかりで、魔力は完全に消え失せたのだった。
 この全く私に似ているところもなく性別も異なる彼を、私が産んだというのだ。
 紛れもなく、気を失うかと思うほどの痛みの中で、縫い合わせなければならぬほどの裂傷を負いながらも、私が彼をこの世に産み落としたというのに。
 一体彼は私のどこの遺伝子を持って生まれてきたのかと日々首をひねる。
 ゴミを片付けながら。学校から問い合わせの電話を受けながら。
 「俺マジで天才でしょ!こっち来てちゃんと聞いて!」
 ショパンの革命が響き渡るリビングで、彼は自慢げに言う。
 音の粒が弾けるようにピアノから飛び出し、彼の指が、あれほど掃除を拒むとは思えないほど器用に鍵盤を行き来する。
 その手は、私の手であった。
 私が見飽きた形の手が、自由に鍵盤を滑っていくのだ。
 ピアノを知らない私の手が、ショパンなんぞを自由に奏でる。
 この私の手が。
 私は窓から差し込む冬の日差しに自分の手をかざす。
 光に縁取られた手に、誇らしく目を細めた。
 「何してんの?」 
 演奏を終えた息子が訝しげに私を見る。
 「なんでもないよ!」
 と、息子の肩をはたく。 



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