第269期 #2
好きな子を自分の部屋に残したまま、僕は逃げた。好きな子の名前はチュンダと言う。家に来てくれた時は嬉しかった。けれど、まるで僕に関心がなくて頭にきた。いい感じか悪い感じか分からないまま近づいた。と、同時に怖くなって逃げた。チュンダの喉仏の感触が手の中にある。大きな鈴のようにゴロンとしていた。僕に無いもの。
「女の子は花なのよ」
ママは僕の髪をとく。黒髪は絹糸のように流れる。僕は黙ったまま、用意された服を着る。白いレースのワンピースだ。白とピンク色以外は身につけない決まりがあった。決まりはいくつもあった。女の子なのだから、跳ねたり走ったりしない。常に微笑むこと。自己主張せず他人を思いやり、聞き役になること、などなど。周囲は僕をお嬢さまと揶揄した。
学校が終わると車に乗せられ塾に行く。これ以上、体を固めたくない。いつしか女性らしさは窮屈な牢獄を意味するようになった。神様、お助けください。大声で笑い食べ、野山を駆け巡る少年を夢見ながら、体を曲げ車内で僕はお祈りする。
行儀よく上品に振る舞うほど、僕の少年が暴れだす。友人と談笑し、ごきげんようと別れた途端に影が濃く伸びた。
ある日、古いビルが重機で取り壊される現場を見かけた。足しげく通ってそれを眺めた。それから逃げるように一人暮らしを始めた。今まで着ていた服をすべて捨て、髪を短くし、少年の風貌に変えた。
「みっともない。よしなさい」ママの声は呪縛となって僕を追ってくる。
(大丈夫、僕は無色だから誰も気づかない)実際、誰も気に留めなかった。
その頃、チュンダに出会った。髭を生やし長身マッチョで女装している。支離滅裂なことばかり話すしイントネーションも見た目も、全てめちゃくちゃでサークル内で距離を置かれている。でも僕は知っている、僕とチュンダの共通と相違を。
道すがら、二人でカマキリを見つけたことがあった。コンクリートだらけの街でわずかな草むらで生きていた。鮮やかな緑色で精巧な作りだった。美しかった。神秘的だと思った。チュンダは感嘆の声をあげ、カマキリをつまみ自分の胸に乗せた。
「タテオカ見てブローチみたいでしょ?」
チュンダは屈託なく笑った。僕もつられて笑った。命はいつも輝いていたんだ。あの頃から、僕は無色ではいられなくなった。
チュンダといると驚きと共に呪縛が溶けてゆく。不完全でも、そのままで美しい世界が色づき動き出して見えた。