第258期 #1
春の雨はまだ寒くて、地下鉄駅の出口から傘の群れが生じている、空から見ると多分花畑には見えるだろう。今の仕事は8時までには家に帰れる。地下鉄駅から家までは15分、ちょうど良い運動より、歩くのがしんどい距離ではある。それに雨の日、ただただ早く帰りたい。帰ったらやることは、別に無いのに。
スマホの前にギターを弾きながら歌っている男がいる。生配信だろうね。前にQRコードを印刷されたポップがあり、スキャンしたらフォロワー300人しかいないSNSのアカウントだった。それじゃ食ってはいけないだろう。でも他人事を心配する場合ではない。
「早く辞めて仕事でも探せ」とツッコミしたいが、地下鉄の中でスマホに「今年は就職難…」のニュースを思い出す。実は金持ちで、遊んでいるだけのパターンもあるかも。勝手に人を批判するのは良くない。
一応歩くのを止めて、10分ぐらいでも聞いてみよう。
あまりにも意味の分からない歌詞と、下手なギターだと思うが、何回も繰り返す「このままでいいのか」「このまま定年でいいのか」という歌詞にはムカつく。違法じゃなければこの人を殴ってみたい、チャラ男の顔しているくせにサラリーマンに刺さる歌詞は辞めとけ。
俺は唯一の観客のせいで、ギターを弾いている男は俺を見つめている。歌は続いているが、10秒後「このままでいいのか」「このまま定年でいいのか」の繰り返しがまた始まった。悪意挑発行為はこういうもんだな。彼は何かを期待している顔をしている。
「ローンはどうするんの?」俺は聞いた。
「は〜、このままでいいのか」と彼は歌い続ける。
「あのさ、家のローンはどうするんっかよ!まだ30年あるから」と俺は聞いた。俺は俺に聞いた。
歌は中断した。男は3秒の沈黙を経て、俺に言った。「貴方のせいじゃないよ。」
春の涙は雨の味がした。徒歩15分の自宅は今日30分かかった。明日から30年間の出勤は変わらないが、「明日混ぜてくれないか。俺、7時半ぐらいから、時間はある。」と彼に言っていたので、今日は少し明るくなった。