第256期 #7

叫び

 声は遠くからずっと聞こえ続けている。
 日常生活はいつもどおり続いている。大きな事件が起こるでもなし、急激な変貌を遂げるでもなし、特に大きな問題があるでもなし。ただ淡々と。
 頭のなかも目の前の景色も、ずっと霞がかっている。はっきりと見えない世界のなか、ずっと手探りで空気をかき分けながらゆっくりと歩み続けている。立ち止まると進めなくなる。ただその信念のみが、ずっと私を駆り立てている。
 世界はずっと苦手なものだけでできている。何を食べてもおいしくないし、何を見ても素敵だと思わない。身体を動かすことは好きではなく、何かを考えることも億劫。
 ただ、声だけが。遠く遠くからずっと聞こえ続けている。
 すべての人に聞こえる声ではない。特別に大きな声というわけでもなく、意識にのぼせないようにすることもできる。けれども通奏低音のように、いつでも気を抜いた途端に絡め取られてしまう。
 呼ばれていると思うこともある。こっちへくるなと難詰されているように感じることもある。どちらにせよ誘惑であり誘導だ。声の促すとおりに動いてしまいたい。この身をすべて委ねてしまいたい。
 だめだよ、と近くで聞き古した声がする。服の裾をしっかりとつかみ、首を振り続けている。だめだよ、行ってはだめ。あの声にすべてを任せてはだめ。善きことであれ、悪しきことであれ。あなたのことはあなた自身が決めなくては。
 この先に何が起ころうとも、それはあなたの選択。
 この子はあたし。まだ若く強かった頃のわたし。今では着古した服の裾にやっとのことで指を引っかけてぶら下がっている。爪で弾くだけで簡単に飛んで行く。埃に紛れて見えなくなる。
 そうしてもいい。けれども、どうしても見捨てることができない。大きく首を振り続けるこの子を。泣きそうな瞳で私を見上げているこの子を。
 もう諦めていい。私はもうあなたの信じ続けていたあなた自身ではない。この先にはもうあなたが夢見ていた世界は広がってはいない。
 でもどうしても振り切れない。着古したこの服を着替えられない。古いほこりを落とすことができない。
 褪せて古びた服の裾につかまり続けている小さすぎる姿にちらりと目をやったまま、どうすることもできない。
 声はずっと聞こえ続けている。進むことも戻ることもできず、隘路で立ち尽くしたまま何ひとつ発することができない私の代わりに、叫び続けている。遠くで。近くで。



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