第247期 #6
痛みはなかった。はじめは、涙かそれに似た水滴が、目頭の近くで私の触覚を刺激したのだと思った。少し冷たいような気がする何かは、私が瞼を閉じるとゆっくり目尻へ移動し、そこで初めて液体ではないとわかった。異物感は隔日、忘れた頃に現れた。
「たしかに、最近瞬き多いよね」
相談すると妻は指摘した。私はそのことを知らなかった。妻の大きな黒い目が私を覗く。虹彩が動いて瞳孔が開き、私という情報を摂取する。
「オデキもゴミもないし、綺麗だよ」
「何かついてない?」
「何が?」
「いや……」
気のせいでしょ、と妻は言った。
「そういうのはさ、大概ほかの問題から来るんだよ」
「ほかの?」
「ほら、例えば嘘をつくと瞬きが多くなるとか、いうじゃない」
私は気安く相談したことを後悔した。
「俺が何か隠してるってことかよ」
語気が強くなってしまった私に、妻は何も返さず誤魔化すように笑った。
異物感の出現が続くうちに、私は少しずつその形状を認識するようになった。まず足があった。私の湿った睫毛の間を懸命に掻き分け進む細い複数の足だ。数は分からないが、最終的に六本くらいのイメージだった。足の次は口の存在を認めた。口吻とでもいうべきか、足とは明確に違う動きの器官が、独自の意図をもって睫毛の間をペチャペチャと触った。触っているのではなく、舐めているのだとやがてわかった。私の涙に由来する水分や塩分の類を摂取しているらしかった。いつしか私の中で、異物感は小さなハエの像を結んでいた。丸く小さく黒光りしたハエだった。
眼科はもちろん、精神科に行く勇気もなかった。ただ、日が経ってくると私はやはり一種の神経症かもしれないと思い始めた。私的な嘘や隠し事を拵えたときに必ずハエは現れ、私の目にまとわりついた。どうやら、このハエが摂取しているのは私の後ろめたさなのだった。仕事中にはどんな嘘をついてもハエは飛んでこなかった。全て会社のせいにするから、後ろめたくないのだ。結局のところ、私はこのハエと一生を共に過ごすのだろう。そう諦めてしまえば少し楽になれた。どうせ社会も人間関係も娯楽も仕事も人生も嘘や隠し事が複雑に絡み合ってできているまやかしだった。実態がないのはこのハエと同じだ。
家に帰ると出迎えた妻は絶え間なく瞬きをしている。そういえば出会った頃から瞬きが多かった。妻の大きな目のまわりに、小さな黒いハエが何匹も愛おしげにまとわりついている。