第239期 #2

がんばりましたね

「お疲れさまでーす」と五歳の娘手製のキーホルダーを付けたハンドバッグを手に、香澄は午後四時ちょうどにオフィスを後にする。「お疲れさまでしたー」とあいさつを返す優花のメガネの奥のその目はずっとパソコンのディスプレイに向けられたままだ。香澄がフロアを出るちょうどその瞬間に香澄のデスクの電話が鳴る。優花が取ると、香澄の業務についての問い合わせである。
「もしもし、営業二課の沢井ですが、河崎さんいますか?」
「河崎はあいにく本日は退社いたしました」
「そうですか。弱ったなあ」
 電話の相手は優花に先を促してもらいたそうな沈黙を醸す。優花は一瞬の間ののち、
「どうされましたか?」
「いや、実は明日納期になっていた見積の件、急に先方が今日中にどうしても欲しいと言っていて」
 その間にも優花は見積のフォルダを開き、沢井が欲しいと言っているファイルがほぼ完成しているのを見つけ、つとめて明るく伝える。
「私でよければ見積、作りましょうか。河崎さんもうほとんど完成してるみたいですし」
「ほんとうですか! よかった、ありがとうございます! 今日中だったら何時でも大丈夫です」
 沢井はそういうと優花の返事も待たずに電話を切った。香澄のファイルを開いて改めて見ると、タイトルと日付だけ新しく、中身は以前の見積そのままで、はっとした後に優花は自分の目算が甘かったことと、香澄が体裁を繕うことはうまいということを思い出し、後者については自分の悪いバイアスが働いているとすぐに打ち消し、香澄は悪くない、悪くないとつぶやきながら仕事に取り掛かり始めた。二十時コースだ。
 メールで見積を沢井に送って電話で確認を行う。
「ありがとうございます! すいません俺テンパってて誰に依頼してたか確認してなくて、でも島田さんだったんですね! 前にも助けてもらったことありますよね」
 優花ははい、はい、とうなずきながら「今度お礼しますよ、ワインのおいしいお店があって」と沢井の食事の誘いを勝手に妄想しながら、そうだったらうれしいのかな、と「じゃあすみません、失礼します」と沢井が電話を切った後も数秒間、受話器を耳に押し当てていた。
 部屋に帰り、鏡の前で化粧を落とす。今日はなんでこんなに自分が、気分が不定形になるのかしら、と裸眼でぼんやり映る自分を見る。ハリのある肌は蛍光灯を反射して白い。
 優花は
「がんばりましたね」
 と自分に告げ、洗面台の電気を消した。



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