第231期 #9

母の声

 母はいつも笑顔で愛らしかった。母の語る世界は美しく、軽やかに周囲の人たちを称え、誰からも慕われた。幼い頃も成長後も辛いときも、母に寄り添えば虹色の世界だった。わたしたちきょうだいは世界を自身を信じ、母を愛した。
 母はわたしたちの成人後、両親を、夫の両親を、夫を見送った。家業の工場を売り抜け、庭いっぱいの花を毎年見事に咲かせる。
 孫たちの独立直後、母は倒れた。
 病院のベッドに横たわる母は、厚い膜で覆われた塊だった。愛らしい姿は醜い膜の下に隠れ、苦しい息づかいが漏れる。
 膜が母の生命力を奪っている。取り除けば病は癒えるが、患者の遺伝子を継ぐ者の手でなければ無理であり、大きな傷と痛みをともなう、と担当医は言った。
 躊躇はない。わたしたちはベッドの周囲に立ち、母の膜に手をかけた。爪が剥がれ指が傷だらけになる。息を切らし痛みを堪え、母の病層を剥がす。
 現れた母は痩せ細っていたが、穏やかな呼吸で、肌に血の気が戻った。
 もう大丈夫だと担当医に告げられ、歓声をあげた。抱き合い、涙を流し、母の生還を祝う。
 そして、母の声が聞こえてきた。
 聞き知った声ではない。憎しみと怒りに染まる呪わしい声。
 声が過去を暴く。幼い母を鞭打ち労働を強いる両親。跡継ぎである兄と自分との格差。横暴な舅姑と、怠惰な夫。夫の元にやって来る女たち。朝から晩まで座る暇もなく働かされ、言うことを聞かない子たちに振り回され、面倒事の責任を負わされる。辛さを訴えた両親に追われ、戻った婚家では満足な食事も寝具もない。台所の包丁を研ぎ、毒をもった花を庭中に植える。
 憎しみは幾層もの膜になり、わたしたちの肩に積み重なった。
 呼応するように、身の内に憎しみがわきおこる。
 幼い頃から母の声で遮断された怒りが。すべてを耐えろ許せと言い含められ押し潰してきた憎しみが。
 わたしたちは床に這いつくばり嘔吐した。
 母は絶対で逆らうことはできなかった。母の意に染まぬものを排除し母にすべてを委ねれば、容易に幸福が得られた。
 お母さまはこのままお元気になりますよ、と担当医が言う。
 わたしたちは視線を交わし、自らを覆う病層に手をかけ、母のベッドへ投げた。剥いだ傷口から血が溢れ強い痛みが苛むが、躊躇なく続けた。
 長い時間が過ぎ、傷だらけのわたしたちの眼前には声のない醜い塊。
 わたしたちは母の病を嘆き、母への愛情を言い交わし、葬儀の準備に向かった。



Copyright © 2021 たなかなつみ / 編集: 短編