第23期 #23

神崎さんと僕とマナミ

 お別れの挨拶に、僕は自作のバームクーヘンを配ることにした。ホットケーキミックスを混ぜて、川原で何重にも重ねて焼いて、甘い匂いの年輪を作り出す。味見すると少しパサパサしていたけれど、隣の家のおばさんも、そのまた隣の家の女の子も喜んでくれたから、僕は天狗になりながらご近所を回っていた。
 神崎さんの家は最後だった。チャイムを押そうとしたところで、庭からおじさんがのそりと現れる。そしていつものように、口から涎を垂らさん勢いで、ぶつぶつと独り言を呟くのだった。その様子を、いつものように僕は無視する。
 チャイムのやけに甲高い音が響いてから、同じ言葉が繰り返されていることに気が付いた。
「マナミ」
 
 僕は自分の住んでいる町が本当はあまり好きではなくて、「古都の町」の宣伝に熱心な自治体には辟易していて、だから車で三時間も離れた会社の寮に入ることができるというのは朗報だった。それでも軽自動車に荷物を載せて何回か往復するうちに、次第に故郷の二文字を実感してしまって、手伝いの友だちには悪かったけれど、途中の高台に車を止めては何度も町の方を見つめる。そして、あの盆地の中の小さなまとまりが、これまでの僕の生活圏内だったのだと深く思った。
 ようやく寮へ荷物を運び終え、しばしうたた寝してから、雑誌を読んでいた友だちに断って外へ煙草を買いに行く。途中、太陽の落ちていく様が映画の名場面のように美しく、どこか懐かしくて涙腺を揺さぶった。慌てて下を向いたところで、目の端に何かが映る、白と黒の斑。
「マナミ」
 名前を呼ぶと、彼女は尻尾を振り、にゃあと鳴いた。

「マナミ」
 僕がおばあさんに会釈して、最後の年輪を手放して帰ろうとする時にも、神崎さんは同じ言葉を口にしていた。何も聞かなかったように通り過ぎて門の外に出ると、夕焼けがあたり一面を覆っている。
 昨日のように美しく。
――もういないよ、あの猫は。
 差し出した手をぺろりと舐めて、ジーンズに体をなすりつけてきたマナミ。昔に比べると格段に毛並みが悪くなった彼女は、しばらくしてから橙色の向こうへと歩みを進めていった。そしてもう二度と、こちらを振り返らなかった。
――昔いた人に似ておとなしかったあの子が、僕よりも先に、僕よりも遠くへ、出て行ってしまったんだ。
 神崎さんの家、狭いこの町から消えていったマナミ。僕は脳裏に浮かぶその後姿を追いかけるように、勢いよく走り出した。



Copyright © 2004 朽木花織 / 編集: 短編