第226期 #1

二日目

「父ちゃんあれ、できる?」
 息子が雲梯を指さして言った。
「できるさ」
 俺は大げさに腕まくりをしてぶら下がると、身体を揺らしながら一段ずつ進んだ。四段目まできたところでハアハア息が切れて、もう限界だと思って息子を見下ろすと
「がんばれー」
 だらしなく伸びた指がきゅっと縮んだ。雲梯はどこまでも続く線路のようだった。右手を離し、先へ。左手を離し、先へ。腰から下を大げさに揺すりながら、歯を食いしばり、ときに空振りしながら、一段一段、夢中で手を伸ばし続けると、ついに終点にたどり着いた。
「父ちゃんすごい」
 肩で息をして、汗をかき、上ずった声で俺は言った。
「言ったろ、こんなの何でもないさ。諦めなけりゃ何だってできるんだ」

 チョコのアイスを舐めながら歩いていると、息子が空いている方の手をつかんで笑った。
「父ちゃんの手、アイスみたいに冷たい」
 雲梯で血の気と握力を失った俺の右手にすっぽり収まった息子の手を握りしめる。息子の熱が俺の手に伝わりきる前に、携帯が鳴る。
「あの……、そろそろ」
「分かってる、分かってるよ」
 何度も振り返りながら息子は俺に手を振り、かつての妻と去っていった。また来月。雲梯の冷たさ、息子の手の温かさ、携帯電話の冷たさが混じった手を見る。


「その紫のメッシュのがいいんじゃない」
「いやーよ、そんなの。でも、前の奥さんはこんな大胆なの無理でしょ?」
「そうなんだよ、ねえ、そのパンツにしなよ、あとでいっぱいちゅぱちゅぱしてあげるから」
「馬鹿ねえ。もう一回言ったら考えようかなあ」
「ちゅぱちゅぱ」「ふふ」「ちゅぱちゅぱ」「もう一回」「ちゅ」
「父ちゃん?」
 ショッピングモールの下着屋の店先で、俺は紫色の婦人下着を片手に唇を突き出したまま固まった。息子は続ける。
「今日も会えたね、父ちゃん、ねえ、遊ぼうよ、父ちゃん、あっちで限定品が売っているんだよ」
「そうだな、また来月な」
「やだいやだやだよ父ちゃん、だってそこのお姉ちゃんはパンツ買ってもらってずるいじゃないか。ねえ、買ってってば買ってよー、うわああん」
 トイレから戻ったらしい元妻は状況をに気付き、しかし遠くから薄ら笑いでこちらを見る。息子はさらに声を張り上げて続ける。「ねえ父ちゃん、昨日諦めなければなんでもできるって言ったじゃんか、行こうよ買ってよ遊ぼうよわああん」
 握りしめる右手の中でパンツがしゃらしゃらと擦れる。相当にいい素材らしい。



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