第222期 #1
水底めく灯りのない階段をそっと降った。裸足を乗せる踏面は冷たく、小さく軋んだ。降りた先の天井からぶら下がる電球を点け、リビングには入らず廊下の方へ曲がるとチィがいた。弱い光を鈍く反射した床板に尻をついて座る従妹はこちらを見上げ、眉を上げたお馴染みの表情で、トイレ?と訊いた。
眠れないだけ。
壁につけていた背中を離し、膝を抱えていた腕を解きかけるチィを僕は制止した。
オレも座るよ。
照れ臭そうに破顔したチィの隣に腰を下ろす。床はやはり冷たい。傍に積んである缶コーヒーを一本手に取ると、これは思いの外冷たくなかった。
あ、おじいちゃんのなのに。
じいちゃんのだから良いんだよ。
夜なのに良いの?
どうせ眠れないからな。
火葬を終えたばかりの祖父の質量は、生暖かくまだこの家に残っている。頑固だが酒を飲むとひょうきんで、宴に集まった親戚たちの前で僕に「するとお前は童貞か」なんて言って豪快に笑うような人だった。
散々泣いたんだ。良いだろ、少しくらい。
プルタブを持ち上げ缶を開けた拍子に、カポっという音がした。静かだ。
思い出した、と僕は言った。
何を?
子供の頃、こんなふうに二人でコーヒー飲んだよな。
ふふん、あったあった。
喧嘩して祖父に二人とも怒鳴られた後、頭を冷やせと缶コーヒーを渡されたのだ。あの頃は、まだ膝を伸ばしてもお釣りが来るほど廊下が広く、缶コーヒーの量は飲みきれないほど多く、二人だけの空気は誰もいない水族館みたいで胸が高鳴った。
ほんとに覚えてんのか?
忘れるわけないよ、とチィは得意げに言った。口調とは裏腹に、出来損ないの子供を見守る親みたいな顔で。
昔みたいにさ、またみんなでワイワイしたいよね。
大学一年の頃に会ったときもチィは同じことを言っていた。彼女の日常に僕はいない。少なくとも、僕よりも遥かに生活は充実していそうだったから、こんな親戚付き合いを恋しがるのは意外だった。
イワシの群れが目の前を過ぎていく。目眩と飛蚊症だ。実は僕はカフェインに弱いのだ。そしてチィは人魚に似ている。そう思ったことが一度ある。透き通った姿は僕の知るチィではなくて、無邪気に幸せを願っていたことを、その日後悔した。
コーヒーは全然飲めそうになかった。
やっぱ寒いから寝るわ、じゃ。
僕は床にそっと缶を置く。
「おやすみ。じいちゃんによろしく」
立ち上がると冷たい空気が顔を撫でた。静かだ。