第220期 #3

マッチョマン微笑

 男はバーベルを肩に担いでスクワットをしていた。タワーマンションの上層階で、月の明かりがカーテンの隙間から男のハムストリングを照らす。自分を限界まで追い込んで、下半身の筋繊維をズタボロにしたあとはベンチプレスだ。バーベルを持ち上げるたびに目が糸のように細くなり、暗い天井がぼやけて、息を吸う瞬間はっきりとする。男はその黒い天井に向かって歯を食いしばりまたバーベルを持ち上げる。
 シャワーを浴びて全身鏡で自分の肉体を隅々までチェックする。合わせ鏡に映された男は右腕を折りたたみ上下する。完璧な球体の上腕二頭筋は男の動きに合わせてまるで惑星のように体側を航行する。呼吸する独立した存在のようにゆっくりと波打つ腹直筋、肋骨を包み込む大胸筋、折りたたまれた羽根のようにそこにたたずむ広背筋。くるくると鏡の間で回転しながら光る筋肉としばらく踊ったのち、やっと男は自分の顔を見る。怯えたようなその無表情は、子どもの頃からまったく変わらない。首からぶら下がった大げさすぎるほどの彼の肉体は、その表情筋を一ミリも動かすことができない。
 朝起きて、もし自分の肉体が完全に消え去っていたらどうしよう、と眠りにつく前に男はふと思う。体中の筋肉がその疲労と痛みでもってその存在感を彼に伝え、そんなことはあり得ないと叫ぶ。
「おはよう」
 出勤ゲートで後ろから声をかけられる。
「今日も仕上がってるね」
 シャツの上からぴしゃりと平手で僧帽筋を叩かれる。
 筋肉を触られるのは好きでも嫌いでもない。同僚に三角筋を叩かれ、事務員の女の子にはずみで上腕三頭筋をつかまれ、彼女とのセックス中に背中の棘下筋に爪を立てられても、男は何も思わない。寝息を立てる彼女の横で暗い天井を見ていると、こみ上げるように己の肉体をいじめたくなり、そっとベッドを抜け出し、ベンチプレスを始める。回数もむちゃくちゃで身体を壊すのではというほどがむしゃらにバーベルを持ち上げると目の端に涙が溜まって、天井がいつもよりぼやけた。
「大丈夫」
 断定的なはっきりとしたその言葉は彼女の寝言だった。男の中で何かがほどけ、本当に久しぶりに男は笑った。どんな表情かは知れないが自分は確かに笑っていた。男は笑顔のままベッドに歩み寄り、驚くほどしなやかに彼の筋肉は腕と関節を動かし、彼の指先を彼女の頬に滑らせた。くすぐったそうに彼女は少し笑った。



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