第220期 #12
久々に大学から実家に帰った私は、自室の本棚で古本の整理をしていた。
端から順に本を眺めていると、ある白い背表紙の本が目に入った。
新潮文庫の谷崎潤一郎の『卍』である。何気なくパラパラと捲っていると、ふと、あるページで手が止まった。
そのページに、萎れた花弁が押し花のように挟まっていたからだ。かなり色褪せてしまっているが、恐らくは桜の花弁だろう。
何故こんなものが、と疑問に思った刹那、突然、ぶぁっと風が吹いたように記憶が蘇った。
それは、私がまだ女子校生だった頃の話である。
私の一つ前の席に、菱見加奈子という少女が座っていた。
ポニーテールにした長い黒髪が特徴的で、物腰の柔らかな、それでいてどこか芯の強さを感じさせるところのある少女だった。弓道部に所属しており、ピンと背筋の伸びた綺麗な座り方がとても格好良く、その後ろ姿に憧れていた。
いや、はっきりと言ってしまえば、〈好き〉だったのである。
人好きのする彼女は友人の多いタイプだったのに対し、当時の私は万事に消極的で親しい人間も殆どいなかった。
もし友達になってくれと言えば、恐らく彼女は拒むことなく私をその輪の中に入れてくれただろう。でも、結局この口からそんな言葉は出なかったし、彼女に誘われもしなかった。
勿論、簡単な会話程度ならしていたし、それだけで充分だったのである。
同性に対するこの感情に、戸惑いと、僅かな後ろめたさを感じていた私にとっては。
ある日のこと、授業中にこっそりと本を読んでいた私は、ふと、彼女の肩に一片の桜の花弁が付いていることに気づいた。
まだ三月初旬だというのに、どこかで狂い咲きでもしたのだろうか。
何気なくその一片を摘まみ上げようとして、私は彼女の肩に触れた。
その時、彼女がふっと後ろを振り向いた。私の視線と彼女の視線がかち合い、思わず身体が硬直してしまった。
凍ったようになっている私の指先にある物を見て、彼女はふわりと春のように笑い、
「ありがとう」
そう言った。
それだけの出来事。それでも私は、その花弁を後生大事に取っていたのである。
もう何年も前の話。この本を開くまで忘れていたくらいだ。この花弁のように、思い出もまた色褪せてしまうものなのかもしれない。
それでも、あの時の感情は本物であったと信じている。
何故なら、切欠ひとつで、これほど鮮烈にあの胸の高鳴りを思い出すことが出来るのだから。