第211期 #4

春のひぐらし

 時折涼やかな風が吹く。あまり有名ではないがちょっとした石庭があるその寺は休日の午後三時だというのに詩枝子の他には誰もいなかった。ちょっとラッキーと思うが、人がいても気になるのは最初の数分だけなので、人がいようがいまいが特に大きな問題ではないな、と思い直す。しふしふしふしふ……と音がする。
 寺はJRの駅から車でしか訪れることができない場所にある。このあたりの青空は詩枝子が住んでいるアパートから見えるそれと比べて二段階くらい色素が薄い。詩枝子はベージュのプリーツスカートを膝の裏から支え、縁側に三角座りをして腰を下ろすと、心の服を脱いだような気持ちで石庭に対峙する。心を裸にして枯山水を見たり、目を閉じたりしていると、詩枝子の右隣、正面を向いている詩枝子の視界にぎりぎり入らないくらいのところで、カップルとおぼしき男女がなにやら話しながら腰を下ろす。男の声はとても低く、しかし、この地方のアクセントなのだろう、思いも寄らぬ抑揚と節回しがあり、ごつごつとしているが丸みがある。そこに軽く絡みつく蔦のように女の声が聞こえる。季節は春だった。ここは混浴なんだよなあ、と詩枝子は石庭に向かって軽く足首を回す。ぽつぽつと話をしていた男女は、眠りにつくようにどちらからともなくしゃべらなくなって、寺にはまた静けさが訪れる。
 男の方は何事かをつぶやき立ち上がると、女を残して消えてしまう。詩枝子はちょうどそのとき口紅の色を少し明るくしようか、と考えていた。詩枝子の考えは形を取るとすぐに静寂の波に砕かれ、石庭の砂利のひとつに形を変える。その合間にどこからか風が吹き、詩枝子の頬を少し冷たくくすぐる。ここでは湯あたりすることはないな、と詩枝子は思う。しふしふしふしふ……と音がした。
 帰ってきた男につれられて女が席を立つ。その間に新たに二人か、三人、この石庭に訪れていたが、詩枝子は気付いてすらいなかった。答えのない考えを巡らし、頭の凝りがすっかりほぐれたところで詩枝子は寺を出る、その前に雪隠を拝借した。しばらくして、落とし紙で臀部に触れると静寂の中に、聞き覚えのあるしふしふという音がし、詩枝子ははっとした。ぱっと障子に飛び散る血のように頭に広がった羞恥はしかし、静寂に砕かれて石庭の砂利の一つになり、詩枝子に凪いだ無心が訪れる。季節外れの蝉の声。しふしふしふしふ……。
 遠くから菜の花のにおいがする。



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