第209期 #1

名探偵朝野十字の事件簿:正義の殺人

 篠田さゆりの美貌は深い知性に裏打ちされ気高く輝いていた。ヴィーナスかくやの悩ましいシルエットを圧倒する高潔な人格。正に女神だ。
 先輩は雪面に這いつくばり、刻まれた深い轍を見つめた。
「篠田さん、これはあなたの車椅子の轍だ」
 彼女は不幸な事故で車椅子を使っていたが、それはいささかも彼女の尊厳を虧損できなかった。
「庭に散歩に出て、そうしたら――新之助さん」
 不安そうに見上げる彼女の冷たい手を私はしっかりと握りしめた。
 今朝、彼女が庭を散歩していたら、池で溺れた林氏を見つけたという。
 ここは有力政治家、佐々木邦夫の東京の私邸であり、昨夜のパーティーに招待された著名人の中に、実業家の林幸弘と犯罪被害者救済活動を続けてきた篠田さゆりが含まれていた。私は彼女の団体でボランティアをしており、このパーティーに付き添った。マスコミの目を気にした佐々木氏は警察に通報する前に名探偵を呼んだ。
 広大な庭の大きな池の周囲には薄く雪が降り積もっていた。
「昨晩降りやんだ雪上には林氏の足跡の他あなたの轍しかない。つまりあなたが犯人であると」
 へっぽこ警部か!と私は内心突っ込んだ。何かトリックがあるに決まってる。
「ここはあなたには寒すぎる。戻りましょう」
 私は車椅子を押した。ちらり振り返ると、先輩は這いつくばって新しくできた轍を見ていた。
 同じサークルの西野順子は言った。
「さゆりさんが妹のようにかわいがっていた女子高生が自殺した。彼女は生前レイプされたと告白したけど犯人は捕まらなかった。それがさゆりさんの運動の原点よ」
 先輩は警察に通報し、警察はいったん篠田さんを拘束したが嫌疑不十分で釈放された。しかし先輩はいまだ彼女について調べている様子だった。
「今回ばかりは先輩の間違いです」
「轍が普段より深かったのは車椅子に重りを載せていたから。彼女が前夜人目のない池の前に林を呼び出し、車椅子で体当たりして池に突き落とした。動機は恋人だった女子高生の復讐のため」
「ただの事故です。林はカナヅチだった。事実です」
「カナヅチが自らわざわざ池に行って落ちた? きみはじつにばかだな」
「仮に先輩の言う通り林が女子高生の死に関係あるなら自業自得ですよ」
「篠田さゆりは確信犯だ。以前彼女の団体が提訴した被告人は公判中に不審死した。成功続きなのにこれからは控えるとでも?」
 名探偵は眉を顰め、呻くように言った。
「彼女は連続殺人鬼だ」



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