第194期 #8
父が亡くなった。それに伴い多額の借金が見つかった。保険金で補填できる程度のものだったが、借金をした理由が問題になった。母は、父が愛人に貢いでいたものだと吐き捨てるように明かした。
酒乱と絶えない夫婦喧嘩。ギャンブル。暴力と束縛と侮辱。僕の身体にいくつか残っている傷痕。これらが父の記憶の全てだ。母は父の話になると外道だと罵る呪詛を吐き、それを受けて姉の結も怒鳴り散らす有様だった。父は死後に呪いを残した。やがて父の話はタブーになり、姉は口をきかなくなった。
そんな姉が数ヶ月ぶりに口をきいた。
「本当はお父さんが借金を何に使っていたのか、教えてあげようか?」
父の愛人には紬という名の娘がいて、借金はその連れ子だか父の子だかわからない娘の養育費に充てられていたということだ。
「お母さんの嘘は汚い」
姉は庭の石を裏返したときのような無表情で言った。姉の制服の隙間から知らない石鹸の匂いがした。
姉は父に似て美しかったが男の影はなく、友達もいないようだった。その中で姉はこっそり紬と接触していて、最近では頻繁に通っているということだった。
姉は明らかに紬に肩入れしていた。
死人の悪口を言い続けて楽しい? お前がそんな風になったのは全部あの人のせいなんだ。お母さんにはそうなんだろうね。
母は妄想混じりの記憶を語るが、姉はもう母を見ていない。
「お父さんってかわいかったんだって」
さ行のうまく言えない舌足らずの父。それを小バカにした母と姉。けれど紬にとっては良い思い出なのだという。
「本性を知ったら驚くだろうね」
「言うわけないでしょ。でね、私、お父さんに似てるんだって」
「好みも似てるんじゃない」
「どういう意味」
「別に」
姉は林檎の入ったビニールに指を当てた。ビニールは姉の指の形に押し拡げられ、やがて破れた。
「痛」
指先に血が一滴ぷくりとふくらんだ。姉の唇が開き、その狭間の黒い闇の中から鮮やかな舌が現れて指先の血を舐め取った。瞬きをする間に舌は唇の間へと隠れ込んでいて、闇はすっかり消えてしまっていた。
「じゃあ行くね」
姉は取り出した林檎を鞄に入れ、駅へと軽やかに向かっていった。後には知らない香水の匂いが残った。
姉は漠然と積もった澱のような憎しみの正体を知ったのだろうか。母はやがて認知症になり、不治の病を患い、それでも毒を吐き続ける。僕は母とともにあるのだろう。病めるときも。健やかなるときも。